■「117クーペ」の後継モデル開発としてスタート
現代では小型から大型のトラック/バス、海外市場においてのみはピックアップトラックおよびそれをベースとするSUV専業のメーカーとなってしまった「いすゞ自動車」は、かつて魅力的な乗用車の数々を生み出してきた。
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なかでも巨匠ジョルジェット・ジウジアーロとのコラボによって開発されたクーペ「ピアッツァ」は、2021年で誕生から40周年を迎えたこともあって、久方ぶりに旧車ファンの注目を集めているようだ。
●はじまりはイタルデザインの“アッソ・ディ・フィオーリ”
伝説のクーペ「ピアッツァ」の源流は、1979年のジュネーヴ・ショーにてワールドプレミアに供された美しきクーペ、いすゞ「アッソ・ディ・フィオーリ(Asso di Fiori:クローバーのエース)」までさかのぼることができる。
デザインを手掛けたのは、20世紀中盤から現代に至るまでの約60年にわたって、世界の自動車デザインをリードしてきた超一流のスタイリスト、ジョルジェット・ジウジアーロその人であった。
ジウジアーロが、1970年代初頭から意欲的に取り組んでいたのが、4人が快適に移動できるとともに、充分なラゲッジスペースも確保し得る実用性と、モダンかつ流麗なスタイルを完全両立したクーペである。そのプロポーザルとして、一連の「Asso(アッソ)」コンセプトが製作されることになる。
まずはアウディ「80」をベースに開発され、1973年のフランクフルト・ショーで発表された「Asso di Picche(アッソ・ディ・ピッケ:スペードのエース)」がその始まり。
次いで、BMW初代3シリーズのコンポーネンツを使用して開発、1976年のトリノ・ショーにて発表された「Asso di Quadri(アッソ・ディ・クアドリ:ダイヤのエース)」へと、順当に進化を遂げてゆく。
しかも「ピッケ」と「クアドリ」の間には、もう1台の「アッソ」が存在した。ジウジアーロが量産型4ドアセダンでもデザインを担当していた韓国車「現代ポニー」をベースに製作した、知られざる「アッソ・ディ・フィオーリ」である。
ところがこのコンセプトカーは、突如として決定された現代自動車の方針変更にしたがって「現代ポニー・クーペ」として1974年トリノ・ショーに出品されることになってしまい、結果としてイタルデザインの命名したネーミングは棚上げとなってしまっていたのだ。
ところで、一連の「アッソ」コンセプトが世間の耳目を集めつつあったころ、いすゞ自動車では、長らく生産されてきた同社のフラッグシップ「117クーペ」の後継に当たるニューモデルの開発に関して、真剣に論議されるようになっていた。
1974年から、いすゞ自動車首脳陣および開発部は117クーペ後継車についてイタルデザイン社と協議を開始。翌1975年から1977年にかけて複数のデザインスタディが提案されたものの、いすゞとイタルデザインの双方を納得させるプロポーザルには、残念ながら辿りつけなかったという。
そんな状況を打破したのは、意外にも当時日本国内で巻き起っていた一大ブームの主役、イタリア製のスーパーカーたちの存在だった。
このころ、いすゞ首脳陣と開発メンバーも、スーパーカー独特の華やかな魅力に目をつけていた。そして、イタルデザイン社の共同経営者である日本人実業家、宮川秀之氏から再び打診された117クーペ後継車についての提案が、日本のいすゞ本社に送られたことで、一度は止まった両社の歯車が再び動き出すことになるのだ。
同じ年の12月には、いすゞ本社の開発部長がイタルデザイン社を訪問し「SSC(Small Super Car)」と銘打ち、イタルデザイン側からのプロポーザルがあれば検討する旨を確約。翌1979年3月には、イタルデザイン名義でジュネーヴ・ショーへの出品を正式決定する。
つまり、アッソ・ディ・フィオーリは発表当時にいわれていたような「イタルデザイン主導」ではなく、いすゞ側が起案したコンセプトに基づくものだった。
そしてマセラティ「ボーラ/メラク」やロータス「エスプリ」などで成功を収めていたジウジアーロのデザイン能力をもって、スーパーカーのエッセンスを実用性に富んだ「アッソ」シリーズの基本コンセプトにブレンドさせる。それがアッソ・ディ・フィオーリの骨子となったのである。
さらに、スポーツワゴンとしての資質も求めていたいすゞの希望をかなえるため、両社内で「SSW(Super Sports Wagon)」というコードネームで呼ばれることになったこの新プロジェクトに向けて、いすゞ本社から「ジェミニ・クーペ」用ローリングシャシと117クーペ用G180W型DOHCユニットが、1978年9月に航空便で発送されることになる。
このような経緯のもと、1978年10月には、ジェミニをベースとしたシャシに、ジウジアーロのデザインしたボディとインテリアを組み合わせる作業がスタートしたのだ。
■フェンダーミラーもジウジアーロがデザインした
いすゞの起案したコンセプトからスタートし、イタルデザイン社によって完成に至ったプロトタイプ「SSW」には、一度は欠番となった「アッソ・ディ・フィオーリ」が再び命名され、1979年3月のジュネーヴ・ショーのイタルデザイン社ブースにて、堂々のワールドプレミアを飾った。
●生産モデル“ピアッツァ”への昇華
極端にシャープなノーズとリトラクタブルのライトカバーが織りなす、超モダンなスーパーカー的アピアランス。およびエクステリアに負けず未来的なインテリアは、たちまち世界中の自動車エンスージアストを魅了することになる。
また同年秋の東京モーターショーでは、ホイールのデザイン変更やサイドマーカーの追加など、よりピアッツァに近いディテールが加えられるとともに、いすゞ主導の試作車であることを暗示する「いすゞX」のネーミングも与えられたうえで再登場。巷では市販を待望するリクエストが、日に日に高まっていた。
しかし実際のところ、ジュネーヴ・ショーにて発表された時点では、生産化、すなわち後の「ピアッツァ」に至る道筋が、既に正式スタートしていたという。
その概要はアッソ・ディ・フィオーリと同じく、PF系ジェミニをベースとするFRの5座クーペで、2リッターに拡大された4気筒エンジンは上級グレードの「XG」と「XE」がDOHC、ベーシック版がSOHCとされた。
そして117クーペが生産化された時と同様、ピアッツァ生産化計画においても素晴らしい能力を発揮したのが、いすゞ社内のデザインチームだった。
いすゞのデザインチームは、初代デザイン部長となった故・井ノ口誼が率いていた時代から、技術力および見識の高さでは、日本の自動車メーカーのなかでも特別な存在だったとされている。そんな彼らにとっても、生産化を意識してデザインされていたとはいえ、一品製作のコンセプトカーとして製作されたアッソ・ディ・フィオーリを量産車として仕立て直すための作業は、大変な苦難だったという。
その一方で、ピアッツァ発売ののちファンやメディアたちから「日本独自のデザイン」と勝手に決めつけられ、酷評を受けることになってしまったフェンダーミラーも、実は日本の交通法規を考慮してジウジアーロ自らデザインするなど、生産化プロセスについてもイタルデザイン社が密接に関与していた。
そして、いすゞの生産化担当デザイナーが足しげくイタリア・トリノまで通い、長期逗留する。あるいは、ジウジアーロ自身もしばしば藤沢のいすゞ本社開発室を訪れ、両者の間では活発な議論が交わされた。そして、ジウジアーロによる美的側面と実用性の両立を図るべく、ミリ単位にもおよぶシビア極まる調整作業がおこなわれたとのことである。
その結果、同時代のPF系(初代)ジェミニのコンポーネンツを使用するという厳しい条件を満たしつつ、ほぼアッソ・ディ・フィオーリを再現した生産型ピアッツァの実現に至ったのだ。
こうして誕生したピアッツァは、まさしく日本自動車史における金字塔ともいうべき1台となった。生産モデルとは思えないほどに美しいクーペは、イタルデザイン社、そしていすゞ自動車のなかから誰一人欠けたとしても、完成には至らなかったに違いないであろう。
■ショーカー「アッソ・ディ・フィオーリ」のその後
1981年6月に、ピアッツァは華々しいデビューを飾ることになった。その傍ら、ジュネーヴ・ショーおよび東京モーターショーでのレビューをすべて終え、市販クーペ「ピアッツァ」としての生産化プログラムも無事コンプリートさせたことで、美しき「アッソ・ディ・フィオーリ」も、当初の役割を終えることになった。そして、華やかなショーカーに待ち受ける宿命として、解体されてしまう可能性も高かったとされている。
●アッソ・ディ・フィオーリのその後
しかしいすゞ社内、とくにデザイン部においては、のちに「アスカ」や初代FFジェミニにも継承されるデザイン言語「カプセルシェイプ」を決定づけた名作を葬り去ることなどできない、とする思いが強かったという。また、実走可能な試作車だったことから、本社工場敷地内での連絡車両として命をつなぐことになったのだ。
それでも1980年代中盤には社内連絡車両としての役目も終え、暗い倉庫でホコリを被ることになってしまったのだが、2000年を迎えて状況は大きく好転。いつしか社内でも忘れ去られた存在となっていたアッソ・ディ・フィオーリの再生計画が持ち上がった。
この時期、いすゞは乗用車の国内販売を終えようとしていたのだが、「いすゞの文化遺産を次世代に伝えたい」あるいは「このような乗用車で培ったブランドイメージを今後開発するモノに生かしたい」と切望していた社員たちが、有志でレストアチームを結成。失われていたダッシュパネルやデジタルメーターを、写真を頼りに作り直すなどの奮闘を重ねた。
そして2000年4月から約1年間におよぶ作業のもと、アッソ・ディ・フィオーリは、みごと現在の美しい姿を取り戻すこととなったのである。
レストア後のアッソ・ディ・フィオーリは、長らく愛知県のトヨタ博物館に貸与され、企画展などにも出品。その後いすゞに戻ったのちも、しばしば社内外のイベントなどでお披露目されてきた。
実は2021年3月下旬から、神奈川県藤沢市の「いすゞプラザ」にて、数年ぶりとなる展示がスタートしている。現状では8月ごろまでの展示が予定されているとのことなので、この機会にぜひとも足を運んでみてはいかがだろうか。
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みんなのコメント
ハーフリトラのカバーの塗装色差にこだわって、当時そこまでやるかの塗装工程を考案したり、フラッシュサーフェースはデザイナー自ら特許を考案したり、車好きが車を作っていたね。
ホントいすゞの乗用車撤退を心から惜しむよ。
アルファロメオの盾とマークを埋め込んでも全く違和感がないと思う。
当時のVWシロッコやアウディと比べても本当に時代を先取りした物と思える。
今の目で見てもぜんぜんイケる。
当時ダークグリーンメタのハンドリングバイロータスが欲しかった。