グランプリレースは、F1が登場する約半世紀も前から続いてきた。1950年に始まったF1世界選手権が全ての始まりとされることも多いが、それ以前にも数々の名車と名勝負が生まれた。
1906年の第1回フランスGPから第2次世界大戦勃発まで、レギュレーションは定期的に変更され、世界が大きな変化の渦に飲み込まれる中、グランプリマシンも多種多様……そして画期的なマシンも多数生み出されてきた。
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ここでは1906年から1936年までの間に主要なグランプリレースへ出場した名車を10車ピックアップし、各マシンの功績とモータースポーツに与えた影響について考察する。
プジョー『L76』(及びL56、L45)
走行年:1912-1914
主要成績:1912年フランスGP、1913年インディ500
主要ドライバー:ジョルジュ・ボワイヨ
エンジンの排気量を大きくしてパワーを出すことは、モータースポーツの黎明期においてはパフォーマンス向上の定石だった。しかし、1912年に登場したプジョー『L76』がその考えを変えた。
アーネスト・ヘンリーが設計した4気筒ツインオーバーヘッドカムシャフトの7.6リッターエンジンは、巨大な14.1リッターエンジン搭載のフィアット『S76』のようなマシンでも150kW(202ps)以下だった時代に、111kW(152ps)近くを発生させていた。
デビッド・ブルース・ブラウンのフィアットは、フランスGP初日首位に立っていたが、2日目に他車と接触してピットから離れた場所で給油したため失格に。それもあり、ジョルジュ・ボワイヨのプジョーがルイ・ワーグナーのフィアットを破り、優勝した。
アドリアーノ・シマロスティは『グランプリ・モータースポーツ全史』において、次のように記している。
「プジョーがフィアットを破ったことで、”小型エンジン×軽量構造”という新しいフィロソフィーに関するプジョーの信念が証明された」
「1912年から1913年にかけて、レーシングエンジンの設計は大きな技術革新を遂げたが、その多くはプジョーが開拓したモノだ」
プジョーの成功は続き、1912年にジュール・グーがフランスGPとは異なる”グランプリ・デ・フランス”で優勝し、翌年のインディ500でも勝利を収めている。
レギュレーション変更により、プジョーは1913年フランスGPへ向けて5.7リッターの『EX3』版コンセプトを作成。半球状の燃焼室とシリンダー辺り2組のバルブを備え、ドライサンプ潤滑方式を採用し、ボワイヨがグーを率いてプジョーのワンツーを達成した。
また、1914年フランスFPではエンジンの排気量が4.5リッターに制限されたものの、ボワイヨの『EX5/L45』はメルセデスの追撃を受けながら、レースの大半をリード。しかしこのレースでは終盤にエンジントラブルに見舞われた。
ただ、1916年のインディ500ではダリオ・レスタ、1919年のインディ500ではハウディ・ウィルコックスが優勝し、プジョーの栄光は続いた。
「2本のオーバーヘットカムシャフトと半球状の燃焼室という、ヘンリーが1912年にプジョーで考案した設計コンセプトは、第1次世界大戦後、ほぼ全世界で採用されることとなった」
そうシマロスティは結論づける。
「それ以前のプッシュロッドとロッカーアームの方式では、これほど強力なエンジンを開発することはできなかっただろう」
フィアット『804-404』
走行年:1922
主要成績:1922年フランスGP
主要ドライバー:フェリーチェ・ナッザーロ
グランプリ黎明期を支えた主要メーカーのひとつであるフィアットは、2リッター規定が導入された1922年に『804-404』を投入した。
マシンは要所のフランスGPとイタリアGPを制した。ベテランのフェリーチェ・ナッザーロが駆る804はストラスブールでのレースでブガッティ勢を圧倒したものの、荒れたサーキットで姉妹車に乗る甥のビアージョ・ナッザーロは一輪を失い、致命的なクラッシュを喫した。
そうした背景があるものの、この804はその後のレーシングカーにおける雛形となった。
英Autosportの伝説的なテクニカルエディターであるジョン・ボルスターは、804について「レーシングカーは小さく、軽く、コンパクトであるべきで、効率的な空力ボディを持ち、ドライバーとメカニックはその上に座るのではなく、その中に座るようデザインされるべきだということを示した」と記述している。
フィアットは翌1923年にも大きな功績を残した。他メーカーが804に追随し、サンビームが804のコピーマシンで成功を収めて非難される中、フィアットは『805』を発表。モンツァでのグランプリ勝利は、スーパーチャージャー付きマシンとしては初の快挙だったが、フィアットはどの後グランプリレースから撤退している。
アルファロメオ『P2』
走行年:1924-1925
主要成績:1925年世界タイトル
主要ドライバー:アントニオ・アスカリ
アルファロメオがフィアットから引き抜いた伝説のマシンデザイナーのヴィットリオ・ヤーノが設計した、直列8気筒スーパーチャージャー付きエンジン搭載の『P2』は、デビュー戦となるクレモナGPでアルベルト・アスカリの父にあたるアントニオ・アスカリが優勝に導いた。
1922年から1925年にかけての2リッター規定のマシンとしては、おそらく最高の一台と言っても過言ではないだろう。
リヨンで行なわれた1924年フランスGPでは、アルファロメオはフィアットやサンビーム、ドラージュ、そして新たに『タイプ35』を持つブガッティの激しい抵抗を受けた。しかし、レース序盤で首位に立ったヘンリー・セグレイブ(サンビーム)やピエトロ・ボルディーノ(フィアット)がマシントラブルに見舞われ、アルファロメオがトップに躍り出た。レース後半にはアスカリをエンジントラブルが襲ったが、僚友ジュゼッペ・カンパーリの活躍によってアルファロメオが大勝利を収めた。
その後アスカリは競合相手の脅威が減ったイタリアGPで勝利。1925年にはフランスGPでアスカリが命を落としたものの、アルファロメオが”忘れられがちな”第1回世界選手権でタイトルを獲得する。
1920年代後半には欧州モータースポーツ界がレギュレーションの面で波乱に満ちた乱世に突入するも、信頼性の高いP2はまだ充分に戦えるレベルにあった。実際、1930年のタルガ・フローリオでは、改良型P2を駆るアキール・ヴァルツィが優勝を果たしている。
ブガッティ『タイプ35』
走行年:1924-1930
主要成績:グランプリ最多優勝
主要ドライバー:ルイ・シロン
ブガッティ・タイプ35は、第2次世界大戦前のグランプリで最も成功したレーシングカーだ。おそらく史上最多の優勝回数を誇り、プロ・アマを問わず様々なイベントでドライブされた。
グランプリレースでは主役マシンとなり、プライベーターのためにパワーは劣るもののメンテナンスが簡単な”スポーツカー”版も用意された。
2リッターのタイプ35は1924年のフランスGPに登場したが、非標準のタイヤでトラブルに見舞われた。ドラムブレーキと一体化したホイールという斬新なアイデアを持ち込んだが、この年と翌1925年はアルファロメオ・P2に軍配が上がった。
しかし、その優れたハンドリング性能と軽い重量、そして多岐にわたる開発とエンジンの変更により、タイプ35は10年を通して活躍。ブガッティは1,500cc規定の導入初年度となる1926年に派生版の『タイプ39』でマニュファクチャラー選手権を制したが、その間もタイプ35は他のレースで勝利を稼いでいた。
1928年のグランプリレースでは、AIACR(FIAの前身組織)の公式レギュレーションに従ったレースがほとんど行なわれない、やや奇妙な時期があった。アルファロメオのP2が成功を収めたものの、その後3年間はタイプ35の独壇場となった。1927年に登場したスーパーチャージャー搭載の2.3リッターエンジンのタイプ35Bは、おそらく究極のバージョンだろう。
登場から6年が経過していた1930年の時点でも、タイプ35はシロンがベルギー/ヨーロッパGP、フィリップ・エタンセランがフランスGP、ルネ・ドレフュスがモナコGPが優勝。それだけのパフォーマンスを備えていたのだ。
ブガッティは、1931年に『タイプ51』を送り出した。外見は先代マシンと似ているものの、ダブルオーバーヘッドカムシャフトのスーパーチャージドエンジンを搭載し、18kW(25ps)のパワーアップを果たした。
タイプ51では、シロンとヴァルツィがマシンを共有して10時間耐久の1931年フランスGPをはじめ複数の勝利を収めたが、イタリアのライバル勢に先行され、伝説のタイプ35の再現を果たすことはできなかった。
ドラージュ『タイプ15 S8』
走行年:1926-1927
主要成績:1927年世界タイトル
主要ドライバー:ロバート・ブノワ
1934年にマシンの最大重量が750kgに制限される、有名な”750kgフォーミュラ”が導入されるまで、グランプリシーンでは様々なレギュレーションが使用されてきた。そしてそのうちのひとつが1926年から1927年の1,500ccエンジン規定だった。
アルベール・ローリーがデザインした直列8気筒エンジンを積む精巧なドラージュ『タイプ15』は、間違いなくこの時代に成功を収めたマシンではあるが、競争相手が少なかったという側面もある。
タイプ15に発生したコックピットの熱をはじめとする初期トラブルは1926年のテスト走行で解決され、翌シーズンへ向けて準備が進められた。ドラージュのエースドライバーであるロバート・ブノワは、フランスGPを含む5つの予選レースで優勝し、資金難に苦しむドラージュに1927年のタイトルをもたらした。
このマシンの成功のカギを握っていたのは、ニッケルクロム製のクランクシャフトと9つのローラーベアリングを採用し、8000rpmで126kW(172ps)を発生させる高回転型の高価なエンジン。ジョージ・モンクハウスは1950年に出版した『グランプリ・レーシング』の中で、「ドラージュは設計と構造における傑作だった。マシンは非常に信頼性が高く、まるでミシンのような走りを見せた」と記した。
また厳密にはトップレベルのグランプリレースではないものの、1936年ヴォワチュレットではイギリス人のリチャード・シーマンが1927年製のドラージュを改造・軽量化し、新しいマシンを持つERAやマセラティといった強敵を相手に成功を収めた。この結果がドラージュの質の高さを証明し、シーマンのグランプリキャリアを後押しすることとなった。
アルファロメオ『P3・ティーポB』
走行年:1932-1935
主要成績:1932年ヨーロッパ選手権ドライバーズタイトル
主要ドライバー:タツィオ・ヌヴォラーリ
当時のグランプリレースでは既にライディング・メカニック(ドライバーに加えて、メカニックがマシンに同乗し、走行中に起こった故障やパンクの修理などを行なっていた)の必要性は無くなっていたが、ヤーノが設計したアルファロメオのP3が最初のシングルシーターGPマシンとなった。P3はまだ比較的緩い”フォーミュラ・リブレ”というレギュレーションでレースが行なわれていた1932年に登場し、好成績を収めた。
1932年、タツィオ・ヌヴォラーリはイタリアGPとフランスGPで優勝し、ライバルのカラッチオラがドイツGPを制す中、ヨーロッパ選手権王者となった。
1933年にアルファロメオのファクトリーチームは一時撤退したが、エンツォ・フェラーリがアルファロメオのグランプリレースでの挑戦を引き継いだ。
当初フェラーリはP3の使用を認められず、『8Cモンツァ』を使用していた。ただマセラティ『8CM』が勝利を収め、ヌヴォラーリが”もうひとつの”イタリアチームに移籍すると、この決定は覆された。
スクーデリア・フェラーリのP3を駆るルイジ・ファジオーリは、コッパ・アチェルボとイタリアGPでヌヴォラーリのマセラティを破り、スペインGPではヌヴォラーリのクラッシュによって僚友ルイ・シロンが勝利を挙げた。
マセラティが強さを見せたことに違いはないが、P3はアルファロメオをグランプリの頂点に立たせ続けた。ただ、それも1934年にドイツ勢のメルセデスやアウトウニオンが新マシンを投入するまでの栄光だった。
P3・ティーポBのエンジンは、1934年の750kgフォーミュラ導入に際して2.6リッターから2.9リッターに大排気量化し、シルバーのマシンが登場する前のモナコGPとドイツ勢が失敗したフランスGPを制した。ただその後、P3は最新鋭のW25やタイプAに負け越していくこととなる。
1935年にマセラティから古巣へ戻ったヌヴォラーリが究極の3.8リッター版のP3でドイツGPを制し、フランスGPでもドイツ勢を驚かせた。エンジンは成長を続けていたものの、P3の時代は終焉を迎えた。
メルセデス『W25』
走行年:1934-1936
主要成績:1935年ヨーロッパ選手権ドライバーズタイトル
主要ドライバー:ルドルフ・カラッチオラ
マシンの最大重量が750kgに制限される新たなレギュレーションで作られた直列8気筒エンジン搭載の『W25』は、メルセデスのグランプリカムバックを告げる一台。全独立サスペンションの採用は目新しいアイデアではなかったが、これまでこの方式で上手く機能したマシンはいなかった。また、ギヤボックスが後輪軸と一体化され、この方式はその後広く普及することとなった。
当時としては流線型のボディを持つW25は、軽い素材で重量を抑え、1934年はアイフェルレンネンやコッパ・アチェルボ、スペインGP、イタリアGPで勝利を挙げた。
そして翌1935年には主要レースのほとんどを制し、エースドライバーのルドルフ・カラッチオラがヨーロッパ選手権を制覇した。
しかし1936年にシャシーの軽量化とショートホイールベース化を行なった後続車『W25K』を投入した結果、ハンドリングが悪化。アウトウニオンのローゼマイヤーがシーズンを支配する中、メルセデスは新マシン開発のためにシーズンを早期に切り上げた。
ただ、カラッチオラはモナコGPとチュニスGPで勝利を収め、W25は現役を退いた。
アウトウニオン・レーシングカー『タイプC』
走行年:1936-1937
主要成績:1936年ヨーロッパ選手権ドライバーズタイトル
主要ドライバー:ベルント・ローゼマイヤー
フェルディナント・ポルシェがデザインしたアウトウニオン・レーシングカーの究極の進化系である『タイプC』。6リッターV型16気筒エンジンをミッドマウントしたこのマシンは1936年に、同じくドイツ勢のメルセデスからグランプリの主導権を奪った。
ドライビングはトリッキーだったものの、先代のタイプA~Bからハンドリングは改善され、387kW(520ps)以上を発生させるタイプCは、大胆不敵で情熱的なベルント・ローゼマイヤーが手懐けた。
メルセデスのエースドライバーであるカラッチオラがウエットコンディションのモナコGPで見せた絶品レースを除けば、アウトウニオンとローゼマイヤーは1936年の主要レースを支配した。
ローゼマイヤーは、ドイツGPとスイスGP、イタリアGPを制してこの年のヨーロッパ選手権を制覇。非選手権レースではアイフェルレンネンとコッパ・アチェルボで勝利を挙げ、トリポリでは僚友ヴァルツィが制している。
厳しい言い方になるが、タイプC最大の功績はメルセデスに後述する『W125』という伝説的なマシンを作らせたことだろう。ただこの大型エンジンをフロントに積む”怪物”に対しても、アウトウニオンのタイプCは1937年にベルギーGP、アイフェルレンネン、ヴァンダービルト・カップ、コッパ・アチェルボ、ドニントンGPで優勝している。
ボルスターはミドシップレイアウトのタイプCを「近代レーシングカーの父」と評している。グランプリにミドシップを定着させることはできなかったものの、成功を収めることができるという可能性を示した。
メルセデス『W125』
走行年:1937年
主要成績:1937年ヨーロッパ選手権ドライバーズタイトル
主要成績:ルドルフ・カラッチオラ
パフォーマンスという面では後任の『W154』の方が優れていたかもしれないが、『W125』はモータースポーツ界における偉大なマシンのひとつだ。447kW(608ps)を越える最高出力を発生させるスーパーチャージャー付き5.6リッター直列8気筒エンジンを搭載したW125は、パフォーマンス制限を目的とした750kgフォーミュラの重量規制をあざ笑うかのような存在だった。1リッター辺り85kW(115ps)、1トン辺り633kW(861ps)と、大排気量エンジンとしては驚異的なパフォーマンスを発揮した。
1936年、アウトウニオンに破れたメルセデスは最終戦を欠場し、チームを再編成。ルドルフ・ウーレンハウト率いる設計部門は逆襲を目指し、先代W25のシャシーのたわみや硬いサスペンションといった問題に対処したW125を1937年に発表した。
その結果、1936年のヨーロッパ選手権王者のアウトウニオン所属ローゼマイヤーでさえも苦しめるマシンが出来上がった。メルセデスは1937年ヨーロッパ選手権の全6戦中5戦で優勝……カラッチオラを筆頭に、ドライバーズランキング上位4名をメルセデスドライバーが独占した。
W125はアヴスレンネンでどのグランプリマシンよりも速い平均速度260km/hで制し、当時のタイヤ技術が限界に達した。その結果、1938年のグランプリマシンは3リッターのスーパーチャージドエンジンへと制限されることとなり、W125は数年間に渡りラップレコードを維持し続けた。1980年代初頭にターボエンジンが本格普及するまで、グランプリレースで最もパワフルなマシンとして君臨し続けたのだ。
「設計者は、何10年もの間、そのパフォーマンスを越えることができないマシンを開発した」とシマロスティは記した。
「そこでメルセデスは再び脚光を浴びることとなったのだ」
メルセデス『W154』
走行年:1938-39
主要成績:1938年ヨーロッパ選手権ドライバーズタイトル
主要ドライバー:ヘルマン・ラング
1938年の3リッター規定に対してのメルセデスの”アンサー”である『W154』は、1930年代に行なわれた研究開発の集大成でもあった。
ダウンフォースという概念やスリックタイヤもない時代、W154は372kW(506ps)近いパワーを抑え込むグリップを発揮。その技術は、第2次世界大戦後の数年間も、モータースポーツのベンチマークとして評価された。
ウーレンハウトは、メルセデスのレースプログラムの予算について、1984年にTVインタビューで次のように語っている。
「欲しいモノはいくらでも手に入ったし、誰もが使い過ぎだとは言わなかった」
「我々が何に使ったのかさえ分からない……」
初期型でもリッター辺り111kW(152ps)を越えるパワーを有していたW154は、1938年の主要レースのほとんどで勝利を収めたが、ドライエが制したW154のデビュー戦はトラブル含みとなり、ライバルのヌヴォラーリがアウトウニオン『タイプD』でシーズン2勝を挙げた。
カラッチオラはW154で1938年に3度目のヨーロッパ選手権タイトルを獲得したが、チーム内のパワーバランスは変化し、僚友のヘルマン・ラングがマシンをモノにした。
メルセデスは1939年のW154で2ステージ・スーパーチャージャーを採用し、より流線型のボディを導入。このシーズンはポイントシステムの混乱と戦争の勃発によって、ラングは正式なヨーロッパ選手権王者にはなれなかったが、ポーGPやベルギーGP、スイスGP、アイフェルレンネンで優勝。カラッチオラはドイツGPを制して、メルセデスが常勝軍団としてのポジションを確立した。
戦後、W154はラングとファン・マヌエル・ファンジオ、カール・キリングのドライブによって1951年にアルゼンチンで2レースへ出場。ただ狭いサーキット特性と現地の燃料によって、W154はポテンシャルを発揮できず、新型マシンを持つフェラーリのホセ・フロイラン・ゴンザレスに破れた。
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