マツダの原点はコルクに
世界的な自動車メーカーであるマツダだが、1920年(大正9年)の創業時の社名は「東洋コルク工業」であり、正業がコルク製造であった。
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では、なぜ、マツダがコルクを作っていたのだろうか?
その理由と、現在のマツダの礎を築いた人物を紹介しよう。
マツダの前身といえる存在がある。
それが広島で明治からコルクの瓶栓を作っていた清谷商会という個人商店だ。
しかし、その業績はひどいものであった。方々から借金をしており、1919年(大正8年)、ついには首が回らなくなる。
そこで、当時のメインバンクであった広島の銀行が再建策として、事業を会社組織とすることにしたのだ。
その結果、生まれたのが、東洋コルク工業であった。
初代社長には企業化を推し進めた銀行の頭取である海塚新八氏が就任する。
そして、そのタイミングで、乞われて経営に参加したのが当時45歳の松田重次郎氏であった。松田氏は、翌1921年(大正10年)に第2代目となる東洋コルク工業の社長に就任。再建に本格的に取り組むことになる。
現在から見れば、松田重次郎氏は、東洋コルク工業をコルクから機械製造へと転換させ、自動車メーカー「マツダ」への路線を導いた人物として知られる。
ブランド名でもある「マツダ」は、もちろん、松田重次郎氏の名前が由来だ。現在のマツダがあるのは、松田重次郎氏あってのこと。
しかし、その松田重次郎氏の参加は、当初は助っ人であったのだ。
では、なぜ、松田重次郎氏が東洋コルク工業に招聘されたのだろうか?
「今太閤」 松田重次郎とは?
傾いたコルク会社を再建するために、なぜ松田重次郎氏が呼ばれたのか。
それは、当時の松田重次郎氏が「今太閤」(裸一貫から関白にまで上り詰めた豊臣秀吉にあやかって)と呼ばれるほど、ビジネスで大成功を納めた人物であったからだ。
ここから、松田重次郎氏の足跡を辿ってみたい。
松田重次郎氏が生まれたのは1875年(明治8年)8月。
広島県安芸郡仁保島字向洋浦の漁師の12番目の子であった。今のマツダの本社工場と同じ場所にあった、小さく貧しい漁村だ。
父を幼くしてなくした松田重次郎氏は、学校には行かず、読み書きは友人の兄に習った。
非常に腕白で負けず嫌いであったという。そして、鍛冶屋に、並々ならぬ興味を抱いていた。
そんな松田重次郎氏は、13歳になると鍛冶屋の奉公するために大阪に向かう。まさに、裸一貫の旅立ちだ。
大阪で鍛冶屋修行を始めた松田重次郎氏は、いくつかもの職場を移りながら、鍛冶仕事だけでなく、旋盤工具などを使う機械鍛冶の腕も磨いてゆく。
そして18歳のとき、呉の工廠造船部に好待遇で向かい入れられる。
さらに19歳になると、当時のアジア最大の軍需工場である大阪工廠へ入所。
さらに、21歳には長崎の三菱造船所へ。
23歳になると、佐世保の海軍工廠へ移る。26歳で再び呉の工廠造機部、31歳で大阪砲兵工廠へ入所。
10代後半から30歳になるまで、当時の最先端の機械技術を扱っていた工場を渡り歩き、松田重次郎氏はモノづくりの技術を磨いていったのだ。
独立で成功 裏切りで留置所へ
そして、松田重次郎氏は若干31歳で独立し、大阪に作業場を構える。
ひたすら現場で技術を学び技術を身につけた松田重次郎氏は、一種のモノづくりの天才であったのだ。
最初は、水道メーターの修理を行っていたが、33歳のときに、従来あるポンプを修理しやすいように改良。
特許を取得して「松田式ポンプ」として売り出す。
このポンプがスマッシュヒットを記録した。
その成功で、松田式喞筒(ポンプ)合資会社を設立するのだが、ここで大事件が起きる。
なんと、その成功を奪おうという部下の裏切りにあい、松田重次郎氏は業務上横領の疑いで49日間にわたって留置されることになってしまう。
さらに、別件で会社乗っ取りを企てる事件も発生。
この2つの事件で嫌気をさした松田重次郎氏は、自分で起こした会社を離れることに。
新たに松田製作所を設立して、改良を加えた新しいポンプなどを製造、販売を続けてゆくのだ。
そうした苦闘の中、1912年(大正元年)には大阪新世界の遊園地の巨大な噴水作りやケーブルカー製作に協力。
松田製作所の高い技術は徐々に世に知られるようになってゆく。
ビッグビジネスで成功も……
そんな松田製作所にビッグビジネスの話が飛び込んできた。
第一次世界大戦が勃発した翌年となる1915年(大正4年)、ロシアから砲弾用の信管400万個もの注文を受けたのだ。
松田重次郎氏は、このビジネスを成功させるため、株式会社松田製作所を設立。
大阪梅田駅の裏に5000坪の土地を阪急電鉄から購入し、工場を建て、約4000人の職工を雇い入れる。
そして、1年ほどで400万個の信管を製造・納品してみせた。手にした利益は、現在のお金にすれば数百億円規模であったという。
この成功によって、松田重次郎氏は、大阪の経済界から「今太閤」と称えられることとなったのだ。
ところが、そんな松田重次郎氏に、またも試練が襲う。
松田重次郎氏は、会社の発展を願い、広島への移転を計画したのだが、それをよしとしない社内幹部から反発を受け、計画は無期延期へ。
またしても部下に裏切られた松田重次郎氏は、会社を辞任。故郷である広島で再スタートを切ることになる。松田重次郎氏、42歳の春であった。
地元広島財界からの歓迎を受け
広島へ戻った松田重次郎氏は早速、新たに松田製作所を設立する。
50万坪の土地を手に入れたところまでは良かったが、その後が続かなかった。資金が集まらずに足踏み状態となったのだ。
最終的には、そのプランは日本製鉄所へ身売りすることになり、松田製作所は広島製作所と名乗ることになる。
そして、1919年(大正8年)、44歳の松田重次郎氏は辞任。フリーの身となる。
そんな松田重次郎氏を待っていたのは、地元財界からの大歓迎であった。
大阪で「今太閤」、「金儲けの神様」とまで称えられた人物だ。事業を見てほしいという引き合い多く、結局、松田重次郎氏は約20社に関わることとなった。
そして、その中の1つに清谷商会があった。後の東洋コルク工業となる個人商店だ。
ちなみに、何十もの会社に関わった時期の松田重次郎氏は、モノづくりよりも、お金儲けに気持ちが傾いていたという。
しかし、そんな松田重次郎氏の心に一喝を与え、原点であるモノづくりに向かうことにさせた事件があった。
それが「株取引の大失敗」だ。
株で大失敗 「モノづくり」へ
当時は、1918年(大正7年)まで続いた第一次世界大戦での好景気の余波があり、株価が高騰していた。これに松田重次郎氏は、少なからぬ資金を投入する。
ところが、1920年(大正9年)3月15日に株が大暴落。戦後恐慌と呼ばれる不況だ。
この大暴落で、松田重次郎氏は、かつてないほどの大損をし、大いに反省したともいう。
この株の大暴落の翌年となる1921年(大正10年)に松田重次郎氏は、正式に東洋コルク工業の社長に就任。
コルクの研究に始まり、新製品の開発など、積極経営に乗り出すことになる。そこから、現在のマツダへと続く歴史がスタートするのだ。
モノづくりの才能を武器に、寒村から、関西の経済界で注目の人物にまで上り詰めた人物が松田重次郎氏であった。
その人物を迎えたからこそ、東洋コルク工業は、今のような世界的な自動車メーカーにまで発展することができたのだ。
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