前回東京オリンピック開催年、1964年を振り返る連載2回目は、driver誌1964年4月号のスクープ記事をお届け。「走り出したホンダレーサー」と題されたページには、あの「RA270」が! 今、世界的にモータースポーツが休止中。ファンはもちろん、当事者たちだって悲しい思いをしているに違いない。だからこそ伝えたい。当時世界中が注目・興奮したホンダF1参戦のスタートラインをプレイバック!
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ホンダF1試作車「RA270」のテストを激写!
〈バックナンバーの記事はオリジナルサイト参照〉
レースの世界ではWRC(世界ラリー選手権)より20年以上早い1950(昭和25)年に、欧州を中心にフォーミュラグランプリを転戦する最高峰のF1(フォーミュラワン)が発足していた。そこへ日本から殴り込みをかけようとしていたのが、ホンダである。
ドライバー誌1964年4月号では、まずモンテカルロラリーに続くグラビアで、同年2月15日に鈴鹿サーキットで行われたテストの写真を、本誌M記者スクープの「本誌特写 走り出したホンダレーサー」として紹介。これぞ、のちにプロトタイプとして知られることになるホンダRA270だ。そして、活版では「焦点!! ホンダGP(グランプリ)レーサーを追う」と題し、ホンダのF1挑戦が発覚した経緯や、国内におけるホンダとレース関係者の慌ただしい動向、ホンダF1マシンの考察などが、熱い語り口で詳細にレポートされている。筆者はモータースポーツの歴史やメカニズム解説の名手として長く活躍した神田重巳氏。
記事を振り返ると、ホンダのF1参戦が海外の自動車メディアからいかに注目されていたかわかる。ウワサを最初に掲載したのは、1960年の英モーター誌。1962年になると、伊カトロ・ローテ誌が予想イラスト入りで書き立てる。ほかの同業誌も黙っておらず、英オートスポーツ、独ダス・アウト、米ロード&トラックにカー&ドライバー…。日本でも多くの自動車関係誌がまだ見ぬホンダF1のニュースを追った。
その中には、ドライバー誌の姉妹誌モーターサイクリストも含まれる。同誌は2輪専門誌として1951年に創刊。モーターサイクル出版社(現・八重洲出版)の酒井文人社長は、浅間高原の全日本モーターサイクルクラブマンレース(1958、59年)を実現したキーマンになる。当時、同社の社屋は東京に本拠を移したホンダ本社(中央区八重洲)の裏手に位置。両社は2輪時代から浅からぬ仲だったと思われる。
実際、ホンダがF1コンストラクターズ連覇(1959、60年)のクーパーから参考にシャシーを購入したのが1962年。前後して、そのクーパーでドライバーズチャンピオンを獲得したジャック・ブラバムは酒井社長を訪ねて来日し、直ちにホンダ関係者と要談したという。同じ年には、ディスクブレーキとタイヤを供給するダンロップのレース部門メンバーも姿を見せた。「63年シーズン後半」という大方の予想は空振りに終わるも、その暮れにはギヤボックスの名設計者コロッティが日本に滞在中との情報が飛ぶ。
そして、1964年の年明け早々、前年のコンストラクターズチャンピオンを獲得したロータスの天才コリン・チャプマンが本田宗一郎社長を訪ねる。ちなみに、宗一郎の愛車は初代ロータス・エリート。そして1月30日、ホンダはついにF1参戦を正式に表明する。
ホンダのF1進出は、ライバル勢にとっては恐怖だった?
まだ4輪乗用車すら造ったことのなかった時点から、ホンダはなぜ海外からこれほどまでに注目されたのか。最大の理由は、宗一郎によるマン島TTレース出場宣言(1954年)に始まる2輪レースの実績にあった。1961年には125ccと250ccで1~5位を独占。WGP(ロードレース世界選手権)でも両クラスのメーカーチャンピオンを獲得するなど、世界の頂点を極めた。その源は、時計のように精巧と言われた超高回転・高出力型のマルチ(多気筒)エンジンだ。
当時のF1レギュレーションは1.5L。もっとも多気筒だったライバルはコベントリー・クライマックスのV8で、フェラーリはV6だった。そして鈴鹿サーキットに姿を現したホンダのRA270は、何とV12! さらには「さまざまな試みがなされたGPレース史でも、わずか一例しか見出せないほど珍奇な」横置きで、ホンダの独創性はF1でも存分に発揮された。
文中にはホンダが熱視線を集めた、今日あまり語られることのないもう一つの理由が記されている。当時のF1はイギリス勢を中心としたコンストラクターが主力。もちろん名門フェラーリは名を連ねるが、「ダイムラー・ベンツが引退したままの現在、ホンダはグランプリに出場中の各メーカーとはケタ違いに大きい」。ホンダは2輪車の業績でも世界一のメーカーに急成長を遂げていたのである。
「チャプマンとホンダ。西と東、4輪と2輪のGPチャンピオン、そして現代のレーサー界でフレームとエンジンを代表する2人。伝聞によれば、“ある種の契約を成立させ”てチャプマンは離日したという」。
もしそれが破談になっていなければ、もしホンダV12がほかのコンストラクターに搭載されていたら、もし宗一郎がF1をあきらめていたら、その後ホンダはどういう道を歩んだだろうか。ついそんな想像をしてしまうほど、若きホンダはオリンピックに負けないほどドラマチックで、スリリングだった。
〈文=戸田治宏〉
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みんなのコメント
昔は知識がなくて分からなかったけど。
そのころの他のチームには驚きだっただろうね。
本当にホンダってすごい会社だったんだな。
当時のF-1や国際レースでは、国別に決められたのナショナルカラーをボディ色としていたが、ホンダのF1参戦に伴い、日本のナショナルカラーを決める必要が生じた。
本田宗一郎は「黄金の国ジパング」にちなみ、日本のナショナルカラーとして「ゴールド」を希望した際「何ならボディ全体に金箔を貼ってもいい」とも言ったとか。
しかし、「ゴールド」は既に南アフリカのナショナルカラーであったのであえなく却下。
そこでアイボリーを提案するのだが、今度はドイツと見分けづらいということで、苦肉の策として赤丸を追加し「アイボリーに日の丸」が日本のナショナルカラーとなった。