設立110年を迎えたアルファロメオの歴史を、松本葉が振り返る!
アルファロメオの110年とは?
2020年、アルファロメオが設立110年を迎えた。イタリア・ミラノで、地元出身のクルマ好きが集まり、Anonima Lombarda Fabbrica Automobiliをおこしたのは1910年。頭文字をとってALFAと名づけられたこの会社こそ、アルファロメオの起源である。いま自動車は100年に一度の改革期にあると言われる。同社は「100年」前よりも前からクルマを作っていたわけだ。
アルファロメオの歴史は波乱万丈だ。“七転び八起き”を繰り返したが、転ぶたびに“幸運”を掴んで起き上がった。設立からわずか5年後、株主だった銀行は将来性に不信を抱き撤退、経営権をニコラ・ロメオ率いる鉱山機械/設備製作会社に譲り渡す。このときの幸運は技術に精通した企業人、ロメオを迎えたこと。彼がいなかったら今のアルファはない。先進技術の発明とレース参戦を熱望したのはロメオである。
世界恐慌の煽りを受けて1933年、政府が設立した産業復興協会(I.R.I.)の傘下に置かれ国家所有になった。財政面を含め、すべての決定権を取りあげられたものの、国の要請で世界大戦中は自動車以外のプロダクツを製作、これがアルファロメオの技術力に磨きをかけた。
戦後の歩みも同様である。1971年には国の決定で南イタリア経済支援に駆り出される。北の象徴であったアルファが南で製造されることになったのだ。エンブレムからミラノの文字が外されて地元ファンを大いに悲しませたけれど、ユーザーの拡大を狙ってより安価で小型、アクセスしやすいことをコンセプトに製作された「アルファスッド」は、水平対向SOHCエンジンを搭載したFWD(前輪駆動)モデルで、同社に新たな道を開いた。
晴れて民間企業になったのは1986年のこと。“トリノ”のフィアットに莫大な資金援助を受けたことで実現するという“ミラノ”のアルファにとっては嘆かわしき事態。何よりフィアット/ランチア車とプラットフォームを共有するという避けて通れぬ試練にぶち当たったが、このプロジェクトで生み出された「164」は見事に差異化を果たした。ベーシックモデルの2.0リッター・ツインスパークエンジンでも最高速度は200km/h以上。アルファに相応しい抜群の性能を誇った。
親会社のフィアットが低迷したことで、アルファロメオの将来に対し懸念が強まった時期もある。救世主セルジオ・マルキオンネが立て直しをはかりFCAグループになってからもアルファのフォルクスワーゲン・グループへの売却が囁かれた。マルキオンネならやりかねない、アルフィスタを震え上がらせたものだった。
が、自動車が迷走を始めた2016年、後輪駆動の「ジュリア」という“答”を提出したのはこの冷淡な合理主義者、マルキオンネ自身だ。F1への復帰も彼の意向と言われる。歴史に縛られず、過去の栄光に浸らず、利益を生み出す駒としての自動車づくりを追求したマルキオンネが、唯一、アルファにだけはロマンを求めた。そうさせたのは“幼い頃の思い出”だ。イタリアで生まれ親とともにカナダに移住した彼は、父親から、アルファのレースでの活躍を聞かされて育ったのである。1906年から1953年までのあいだに開催された公道レースで、アルファロメオが優勝したのは58回とされる。メルセデスは38回、ブガッティは33回、圧倒的な数だ。
アルファロメオ史に残る“顔”
「トヨタは変わらなければならない」と、豊田章男社長は述べたが、これに擬えればアルファロメオは変わらぬことで前進する。初モデル、モノブロックの4気筒エンジンを搭載した「24HP」のテーマは「ツーリングにもスポーツにも使える高性能車」。この思想が今に至るまで貫かれる。先進技術と美しいデザインを融合したドライビング・ファン溢れる高性能車を生み出したのは、創業時代から超一流メンバーが集まったから。それもアルファの大きな特徴だ。これほど多くの“人間の顔”が見えるメーカーはアルファをおいてほかにない。
デザインで言えば、「ミラニッシモ」(バリバリのミラノ)と呼ばれるカロッツェリア、カスターニャを先人として、ミラノ組はザガートとツーリング、トリノ組はピニンファリーナとベルトーネが黄金のアルファを作り出した。なかでもベルトーネ在籍中のフランコ・スカリオーネとジョルジェット・ジウジアーロの手掛けたモデルはその存在感、評価、販売台数のいずれでも群を抜いている。“デザイン軍団”のピニンファリーナに対し、ベルトーネは個人の才を際立たせる。ジウジアーロは自らイタルデザインを起こしてからも量産モデルを設計するなど、多くのアルファロメオを手掛けた。1972年に設立された社内デザインセンターもワルテル・デ・シルヴァを筆頭に一軍が顔をそろえる。
代表的なエンジニアで言えばジュゼッペ・メロージ、ヴィットリオ・ヤーノは戦前組、戦前戦後を繋ぐのはジョアッキーノ・コロンボ、オラツォ・サッタ・プーリガとジュゼッペ・ブッソ。彼らの存在が大き過ぎて戦後組は影が薄くなってしまうけれど、ルドルフ・フシュカやカルロ・キティ、コモンレール式ディーゼルを考案したサンドロ・ピッコーネがいる。ジオット・ビザリーニも若き時代をアルファで過ごした。
若き時代といえばエンツォ・フェラーリもおなじだ。1951年のイギリスグランプリで、古巣アルファロメオを抑えて優勝したときのエンツォのツィート、「“母”を殺してしまった」は、有名であるが、確かに息子エンツォは「母(アルファロメオ)」がなければ決して育たなかった。フェラーリというメーカーは生まれなかったはず。一方でフィアットにいたヴィットリオ・ヤーノをアルファに引き抜いたのは(クチのうまい)エンツォだ。ヤーノがいなかったら今のアルファはなかったかもしれない。「母」は「息子(エンツォ)」に助けられたとも言える。
ドライバーもエンツォを含め、彼が憧れたタツィオ・ヌヴォラーリ、アントニオ・アスカリ、ジュゼッペ・カンパリ、アキーレ・ヴァルツィから戦後のファン・マヌエル・ファンジオまで、DTMの時代も含めて多くのスターを輩出している。
しかしながらアルファロメオでもっとも特徴的なのは作り手、駆り手ばかりでなく、優れた経営人に恵まれたことだろう。優れた経営人とは企業ヴィジョンのある、社会貢献の使命を自覚した、自動車好きという意味だ。
代表者としてニコラ・ロメオのほかに、ウーゴ・ゴッバートとジュゼッペ・ルラーギをあげたい。両者ともに生粋派ではなくI.R.I.から立て直しのために送り込まれた人物。前者は1933年、後者は1951年、ミラノに着いた。2人が成したのは、それまでのアルファロメオの歴史に忠実に、伸ばすべきものを伸ばすことで再建の道を探した点。つまり技術力だ。ゴッバートの強い希望で1938年から航空機エンジンとスクリュープロペラを製造した。ちなみにかの有名なヘンリー・フォードの台詞「アルファロメオが通過するたびに私は帽子をとる」はゴッバートに言ったものである。
工場の爆撃も含めて第2次世界大戦で大きな打撃を受けたアルファを立て直したのはルラーギだ。「1900」、「ジュリエッタ」、「ジュリア」、「33ストラダーレ」から「アルファスッド」までいずれも彼の肝煎りで実現した。ルラーギは社会改良主義を唱える物書きとしてもよく知られている。アルファでは工員の姿からアートまで盛り込んだ上質な社内報を発行し、“企業は製品ばかりでなく文化を生み出さなければならない”といった。これが彼の信条だった。
丁寧な歴史の掘り起こし作業
おそらく文化という視点から同社が歴史を掘りおこすのを重んじているのは、ルラーギの姿勢を受け継いでいるのだろう。興味深いのはここでも“人の顔”が見えること。現在、アルファロメオの歴史の伝道者はアルファ ロメオ・ミュージアムの館長、ロレンツォ・アルディツィオである。
トラムの停車場で見かけた光景に閃いて生まれたエンブレム、お守りとしてそれが貼られたマシンが優勝したことで伝統になったクアドリフォリオ、「デイスコヴォランテ」や「デュエット」といった車名に秘められたストーリー、アルファロメオには多くの物語がある。この点で言えば「ロンバルディア地方の自動車有限会社」の頭文字を結んだら、ギリシア文字でイチを意味する「アルファ」という幸先のいい社名になったことも物語。こういった小さな物語をたくさん内包するのがアルファロメオの魅力だ。
そうした物語を語り部として残し、伝えるのが今年36歳のミュージアム館長というわけだが、なにより彼の出自自体が「物語」だ。
アルディツィオ家が代々受け継いだ家は、1968年にアルファロメオ専用サーキットとして建設されたバロッコの真ん中に今も残される一軒家。お父さんはアルファロメオのテストドライバー。覆面車両のテスト時もサーキット入りが許されていた彼はアルファのエンジン音が子守唄になり、大きくなった。まさに、生まれついてのアルフィスタ。館長としての勤めのかたわら大学で自動車史とデザイン学を教える彼は、ドライバーとしてもめちゃ速の腕を持つ。アルディツィオが館長となってから、アルファロメオに潜む多くの物語が文字化された。
ミラノのあるロンバルディア州は、COVID-19に大きな被害を受けたことから、ミュージアムで予定された創立110周年祝賀イベントは中止になった。しかし、館長主導で制作された記念本は電子書籍として世界配布が決定した。祝賀本のお披露目にあたっては欧州のみならず、アメリカ、中国、日本でもオンライン記者会見がおこなわれ、館長がジャーナリストからの質問に即興で答えた。
アルファ ロメオのDNA、イタリアの美、今後の展望といった質問に流暢な返答を投げ返したことは驚くに値しない。おそらくいつも受ける質問なのかもしれない。アルファロメオのパリ工場存在時期(1928年から19933年まで)の生産モデルと台数(6C/8C、計100台)、建築家の名前(ロベール・マレ=ステヴァンス)から設立の経緯に至るまでメモを見ずともスラスラ。戦前モデルのライトとカバー形状、その意味についてもスラスラ、ついでに言えばアルファロメオを駆ったドライバーの家族構成もスラスラだ。
しかしここで注目すべきは記憶力のよさではなく、彼が責任者をつとめるミュージアムとアーカイブの姿勢。「歴史検証メソッド」の博士号を持つスタッフが、科学&数学的視点から分析を行い、真実か否かをふるいにかけて事実関係を明らかにしている点だ。散らばったジグゾーパズルのピースを集める作業をコツコツおこなっている。集めた資料をつなげると長さ6kmになるというから驚きだ。まさに110年という長い歳月の証。
もうひとつ彼が力を入れているのは動態保存を原則とするミュージアム車両の積極的な公開だ。現在の常設展示台数は70台。ほかにワンオフのプロトタイプを含め210台がデポに置かれている。事前に予約すればこのバックヤードの車両も見せるという。これも館長のアイデアだ。アルファロメオが内包する多くの物語を掘り起こし文字として綴り、企画展/講演会を開催、同時に物語が生み出した車両をライブで見てもらい、走らせる機会を多く設けたい、これが彼の展望である。
アルファロメオの110年は栄光と挫折の繰り返し、しかし転んでもいつも立ち上がった。雑草をむしり取って立ち上がったわけではない。掌にはいつも明日への希望となるようなアイデアが握られていた。メモリアルイヤーはコロナ禍という惨事とぶつかってしまったけれど、この偶然は人類は何が起きても必ず立ち上がることを暗示しているようにも感じられる。
おめでとう、アルファ ロメオ!
文・松本葉
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