悪名高い悲劇
かつて、企業の大失敗といえば「エドセル」の一言に尽きた。
【画像】エドセルの失敗が生んだ名車【フォード・マスタングを写真で見る】 全94枚
60年以上前、フォードは2億5千万ドル(現在の貨幣価値で25億ドル)を投じて新ブランドを立ち上げたが、それは史上最悪の立ち上げとして知られることになる。さまざまな企業にとってケーススタディとなり、その名前は失敗の代名詞となった。
これは、エドセルがどのように生まれ、1959年11月19日にどのように倒れたか、そしてその失敗が皮肉にもフォードの素晴らしい成功の礎となったかを描いた物語である……。
GMとの戦い
エドセル部門は最終的には失敗に終わったが、ブランド立ち上げの背景には健全な考え方があった。50年代半ば、フォードはフォード、マーキュリー、リンカーンの3つのブランドを持っていたのに対し、ゼネラルモーターズ(GM)はオールズモビル、ポンティアック、ビュイックの中級車ブランドと、シボレー、キャデラックの高級車ブランド、計5つを抱えていたのだ。
GMが3つも中級車ブランドを擁していたのに対し、フォードはマーキュリーしか持っていなかった。また、マーキュリーも高級車ブランドのリンカーンも収益性が低く、GMの高収益ブランド群とは全く対照的であった。
この問題は、今に始まったことではない。フォードは1920年代から、マルチブランドのGMの台頭とともに、この問題に取り組んできたのだ。フォードが本格的な反撃を開始するのに30年もかかった理由は、ドキュメンタリードラマの題材にふさわしい。嫉妬、強引さ、傲慢さ、機能不全な帝国、不適切な決定、少数の勝者、多数の敗者を生み出したのである。
ヘンリー・フォードの固執
T型フォード(モデルT)は、自動車を「民主化」させたクルマであり、その生みの親こそヘンリー・フォードである。フォルクスワーゲン・ビートルよりも売れ行きがよく、ヘンリー・フォード(1863~1947年)はちょっとした小国よりもお金持ちになった。
しかし、フォードは後年、自分のやり方を変えることを拒み、彼自身をセレブにまで押し上げたT型も変えようとしなかった。1927年、フォードの米国市場シェアは、1922年の48%から19%に急落していた。T型は古くなり、新しい富裕層が買い替えを進めていた。
GM「あらゆる財布と目的に合ったクルマ」
我々クルマ好きがこれほど長い間、多くの選択肢を享受してきたのは、アルフレッド・P・スローン(1875~1966年)の存在が大きい。彼は、1920年代のGMと、その共同創設者である買い物好きのウィリアム・C・デュラント(1861~1947年)が蓄積した、赤字ブランドの寄せ集めを復活させた立役者である。
スローンは、ブランドとモデルを階層的に配置し、「あらゆる財布と目的に合ったクルマ」を生産した。各ブランドは車体を巧みに共有し、それぞれが独特の装飾を誇示していた。
頑固親父の説得
ヘンリー・フォードの息子エドセル・フォード(1893~1943年、運転中の写真)は、最終的に父親を説得し、T型フォードからA型フォードに切り替えるよう促した(T型の終焉からA型の登場まで、あまりにも突然だった)。彼はまた、父親を説得して、低迷していた高級車ブランドのリンカーンを購入し、見事に復活させた。
反撃の狼煙
1936年、流線型でアールデコ調のボディにV12エンジンを搭載するリンカーン・ゼファーは、フォード初の中価格帯モデルだった。エドセル・フォードが考案したこのモデルは、リンカーンを救うには十分な売れ行きを示したが、セグメントを独占するには価格が高すぎた。
斬新なデザインとは対照的に、やや粗雑なサスペンションと時代遅れの機械式ブレーキは残念なもので、V12エンジンの信頼性にも問題があったものの、大きな成功を収めた。
続くマーキュリーの立ち上げ
御曹司エドセルが2度目の市場開拓を行ったのは、1939年にマーキュリーという新しいブランドを作ったときだ。当初、彼はマーキュリーに「フォード」の名前を付けることに固執し、高級化の足かせとなっていた。しかし、フォードのバッジはすぐに外され、マーキュリーは第二次世界大戦前に順調なスタートを切ることになる。
こうした成功にもかかわらず、ヘンリーは一人息子に苦難の道を歩ませた。1943年、エドセルは胃癌により49歳の若さでこの世を去った。
GMを追え
エドセルが亡くなり、ヘンリー・フォードが引退した後、エドセルの28歳の息子ヘンリー・フォード2世(1917~1987年、写真は祖父と)が1945年にCEOに就任する。しかし、会社は体制も新製品も幹部も不足しており、祖父は時に偏執的に、時に残忍な支配で会社を切り崩しながら経営していた。
第二次世界大戦が終わる頃、フォードにはまともな経営計画がなく、技術、財務、設計部門はほとんど存在しなかった。工場は混乱し、平和の到来とともに軍需品の注文はすぐに途絶えてしまった。フォードは、スローンの後任としてGMのアーネスト・R・ブリーチ(1897~1978年)を引き抜き、GMの組織構造の模倣に着手する。
10人の「神童」
ヘンリー・フォード2世はまた、元米国陸軍航空部隊の将校たちを採用した。ビジネススクールを卒業し統計チームに勤めていた彼らは、原価管理や統計解析のアドバイザーであり、会社にはない専門知識を持っていた。
「ウィズ・キッズ(神童)」と呼ばれるようになった彼らは、すぐに財務部門を支配下に置いて、エドセル・ブランドに大きな影響を与える社内の縄張り争いの主役となった。右端に写っているのは、最も有名なウィズ・キッズの1人、ロバート・マクナマラである。
高収益の原価計算技術
フォードは、GMが少量生産のモデルを高い値段で売っているのに、どうやって採算をとっているのか不思議だった。ウィズ・キッズの活躍により、フォードは遅ればせながら原価計算の技術を習得し、リンカーンやマーキュリーがいかに損をしていたかを初めて知ることになる。
そして困惑した。GMの儲けの秘密は、全ブランドで3種類のボディサイズを使い、その類似性をクロームパーツやカラーリングで巧みに”ごまかし”、必要であればモデル特有のパネルをいくつか使用するというものだった。この仕組みが、エドセルのブランド計画のロケット燃料となったのである。
新ブランドの立案
新しい「E-car」(エドセルの名称が使われるようになるのはまだ先)の製品企画を担当したのは、製品企画責任者ルイス・クルーソー(1895~1973、写真)とウィズ・キッドの1人、ジャック・リースである。クルーソーはサンダーバードの生みの親であり、リースは経営難に陥っていたフランス部門を立て直したばかりであった。
2人はE-carだけでなく、リンカーンやマーキュリーも含めて、ビュイック、オールズモビル、ポンティアックをターゲットにした広範囲な戦略を立案した。
野心的な計画
クルーソー、リース両名の計画は、非常に野心的であった。フォード、エドセル、マーキュリー、リンカーンの3ブランドを中核に、新たに超高級車ブランド、コンチネンタルを加えるというものだ。
この計画では、すでに開発中の車体もあり、想定よりコストを抑えることができた。そして、フォードは5つ目のブランド、エドセルをフォードとマーキュリーの間に入れ、GMの「ビッグ5」に対抗するラインナップを完成させる。
ディーラー・ネットワークの拡大
リスクを伴う戦略であったにもかかわらず、フォードの取締役会は主にディーラー・ネットワーク計画に関心を寄せた。1955年の米国におけるディーラーは、フォードとマーキュリーが8000店、GMが1万6500店、クライスラーが1万店であった。
クルーソーとリースは、エドセル専用のディーラー・ネットワークを追加することで、店舗数を1万600店まで急速に拡大できると考えたのだ。
しかし、営業部長のジャック・デイビスは、新ブランドのためにマーキュリーを高級化することで、高いお金を払いたがらない顧客を失うことになるのではないかと懸念した。また、まったく新しい、まだ試されてもいないディーラー・ネットワークもリスクがあると考え、より慎重な拡大を望んでいた。
こうした心配をよそに、1955年4月15日、「E-car」計画は産声をあげる。
「全く新しい自動車の構想」
これは、若きデザイン主任、ロイ・ブラウン(1916~2013年)に課せられた、不可能に近い課題であった。なぜなら、フォードが新たに採用した「互換性」というアプローチは、既存のボディを流用することを意味し、オリジナルの要素はノーズとテール、バンパー、リアドアの下部パネル、ボンネットとトランクリッド、装飾、グリルのみに限られたからだ。
こうした縛りにもかかわらず、「美的な独自性は不可欠である」と目標に掲げられている。そこでブラウンは、当時流行していたテールフィンを廃止し、現在でもモダンな印象を与えるブーメラン型のリアランプを採用した。まるで、数年後には米国車からフィンが消えてしまうことを予見していたかのようだ。「キャデラックのフィンは嫌いだった。危険でもあったんだ」と彼は語っている。
縦型グリル
ブラウンらデザインチームはまず、スタジオの壁に既存のクルマの写真を貼り付けていった。すると、米国車のほとんどのグリルは水平基調だが、ロールス・ロイスやメルセデス・ベンツ、ジャガーなど、欧州の高級車には、縦型のエアインテークが備わっていることに気づく。
そこでブラウンは、エドセルで縦型のグリルを採用することで、米国車の中で際立った外観を確保することに成功した。
グリルの改悪
エドセルの初期スケッチでは、カウンターウェイトのクォーターバンパーに挟まれた細長い縦長の楕円が、エレガントな印象を与えていた。
しかし、エンジニアからの要求により、冷却のために開口部を大きく取ることに。二重になった馬の頸輪(くびわ)のような形状は、「レモンを吸うオールズモビル」と呼ばれ、このグリルがエドセルのマーケティングの基礎となる。しかし、物議を醸すデザインであり、一部の人の目には醜く映ってしまった。
良い名称を探して
エドセル(Edsel)。それは、決して美しい言葉ではない。社会学者からフォードに転身したデビッド・ウォレス(1908~74年)は、新ブランドの命名を任され、代理店を雇って考案を依頼したり、消費者調査を行ったりした。しかし、あまりに反応がないことに驚いた。
試しに「ビュイック」の名を混ぜてみたところ、このライバルの名前にも反応がない。ウォレスは、調査を昼食後に行ったために、対象者の多くが寝ぼけていたのではないかと勘ぐった。
幻想的すぎる名称候補
追い込まれたウォレスは文学界にも目を向け、米国の詩人マリアン・ムーア(1887~1972年)を起用する。これにより、自動車業界では見たこともないような優雅な言い回しが次々と生まれ、後に『ニューヨーカー』誌にも掲載された。ただし、独創的ではあるが、どうしようもない候補が列挙された。
最も悪名高いのは、ユートピア・タートルトップ、レジリエント・バレット、マングース・シヴィーク、アンダンテ・コン・モト、フォード・シルバーソード、バーシティ・ストロークなどである。ムーアにギャラを支払わなかったのも、無理はない。
(後編へ続く)
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