様々な断片から、自動車史の広大な世界を管見するこのコーナー。今回は、戦前はブガッティ、戦後はフェラーリのライバルと目されてきた、マセラティの栄光と悲しみの日々を振り返ってみたい。
追憶のマセラティ
メイド・イン・トーキョーのスロットカーの思い出【GALLERIA AUTO MOBILIA】#025
イタリアの古都、ボローニャのオフィッチーナ・アルフィエーリ・マセラティは、1926年に自らの名前を冠したレーシングカーを開発する。そして自らの操縦で登場してから数年のうちに、高性能で高品質のレーシングカーを産み出す工房として、ブガッティのライバルと目されるほどの存在になっていた。
ブガッティが自ら顧客の中心となってレース活動をしていたように、マセラティの場合も顧客とともにレース活動をしていた。ただブガッティは、ロードカーの生産にも力を入れ、また当主のエットーレ・ブガッティは特別誂えの服を着こなすダンディで、乗馬を楽しみ、城のような邸宅で顧客を迎え入れるという貴族的スタイルであった。
一方のマセラティ兄弟は、小さな町工場で自らが油にまみれてレーシングカーのみを作っていた。元々が6人兄弟のうちの5人が長兄カルロの影響の元に自動車の世界に飛び込み、カルロが夭折した後は次兄アルフィエーリが中心となり兄弟の力を結集してマセラティを興したのだった。またレースでの負傷が仇となってアルフィエーリが逝去すると、末弟のビンドを中心にエルネストとエットーレの3人でクルマの開発を続けていた。
1937年には企業家オルシからの買収の申し出を受けて会社の経営を委ね、同時にモデナの新工場に移転した。しかし、戦争を挟んで10年後にはマセラティ兄弟はマセラティに別れを告げて、故郷のボローニャに帰って、レーシングカーのみを造るOSCAを創業する。
オルシ経営のもとで、戦後のマセラティはレース活動を継続しながらも、初めてのロードカーであるA6ピニンファリーナを生産ラインに載せた。そこからマセラティの新しい時代が始まった。高性能なレーシングカーのロードバージョンという位置付けのスポーツカーは世界最高峰の存在で、第2次世界大戦後に出発したフェラーリは'50年代にはそれを追う立場だった。
イタリアの小さな田舎町モデナのマセラティとフェラーリは世界中のレースでライバルとして戦い、何度もマセラティはフェラーリを打ち負かしてきたけれど、しかし勝星の数ではフェラーリに及ばず、'60年代にはレース活動も縮小して大きなポテンシャルを秘めながらもダークホース的存在になってしまった。
そんな歴史を偲んでしまうからだろうか。 '60年代のマセラティのロードカーからは、一度は栄光の頂点に立ちながら潔く身を引いて落魄した、壮年の男の後姿のような、フェラーリにはない複雑な甘さと苦さが感じられるのだ。
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