この記事をまとめると
■1963年からマツダでロータリーエンジンの本格的な開発が始まる
ロータリーを世に知らしめたマツダの至宝! コスモスポーツはやっぱり偉大だった
■1967年5月に世界初の量産ロータリーエンジンを搭載するコスモスポーツが登場
■1968年8月に開催された84時間にも及ぶ耐久レース「マラソン・デ・ラ・ルート」に参戦
ロータリーの歴史は常にモータースポーツとともにあった
マツダといえば、クルマ好きの間では「ロータリーエンジン」メーカーとしての認識が強いかもしれない。マツダが手がけた世界的にも希少なロータリーエンジン、これの開発経緯と初期の足取りについて振り返ってみることにしよう。
オート3輪事業による近距離物流で、戦後の復興期に貢献したマツダ(東洋工業・当時)は、荒廃した状況から一段落した1960年代を迎えると、自動車メーカーとして新たな時代を生き抜くには「独自性」「独自の技術」が必要だと判断した。当時、社長職にあった松田恒次は、1961年に渡欧してドイツ・NSUバンケル社と同社が特許を持つバンケル方式エンジン(=ロータリーエンジン)の使用許諾に関する契約を結び、1963年から本格的な開発プロジェクトを立ち上げた。
ちなみに、このときロータリーエンジンの開発に携わったスタッフは、のちにその数から「ロータリー47士」と呼ばれ、開発部長として彼らを束ねたのが山本健一だった。
これはよく知られる話だが、ロータリーエンジンの実用化に向けて最大の障壁となったのがローターとハウジングを密閉するアペックスシールの問題だった。マツダは日本カーボン社との協同開発で、カーボンに特殊処理を施した独自のアペックスシールを開発。このアペックスシールによってロータリーエンジンの実用化が可能となった。
ロータリーエンジンの特徴は、小型コンパクトにして高出力性を持つ点にある。いわゆる高性能エンジンということだが、問題は、この高性能をエンジンをどのモデルに搭載して市販するか、という具体化の手法だった。ロータリーエンジンの開発に目処が立った1966年前後のマツダ乗用車のラインアップは、ファミリアとルーチェの2車種が存在した。
このいずれかに搭載するか、それともまったくの新型車を企画してそのモデルに搭載するかという二択の状態だったが、社長の松田恒次は迷うことなく新型車の開発を選択。理由は、レシプロエンジンと較べて次元の異なる高性能性を発揮するロータリーエンジンの存在を強く市場に印象付けるには、平凡な乗用車ではなく高性能を強くアピールできるスポーツカーが最適、と考えたのである。
このモデルが1967年5月にリリースされたコスモ・スポーツ(L10A型)だった。同モデルは発売から1年2カ月を経た1968年7月に後期型のL10B型に発展。搭載する10A型2ローターエンジンの出力が110馬力から128馬力へ、トルクが13.3kg-mから14.2kg-mへと引き上げられ、トランスミッションが4速から5速に変更される急速な進化を見せていた。
84時間走り切って総合4位でチェッカー!
さて、わずか491cc×2ローターの排気量から、市販車の常用性能として110馬力(すぐ128馬力に)を確保したロータリーエンジンの高性能性だが、さらに強く市場にアピールするにはどうしたらよいか、その方法が問題だった。ここでマツダが着目したのは、レースへの参加、そこで実績を残すことがもっとも効果的な手法だ、と考えたのである。
当時、日本のサーキットレースはまだ創生期にあり、決して熟成した環境ではなかったが、原点となる第1回日本グランプリの反響を見ても、レースでの活躍が市場に対して大きな影響力をおよぼすことは確認されていた。
では、市場への性能訴求も背負ったコスモ・スポーツによるレース参戦に関して、「どういったレースが最適なのか?」という問題に行き着くことになる。マツダが下した判断は、1965年から西ドイツ・ニュルブルクリンク・サーキットで開催されていた「マラソン・デ・ラ・ルート」への参戦だった。
このイベント、発端は1931年に始まる「リエージュ~ローマ~リエージュ」で、公道を使った長距離ラリーとして企画され、走行距離は3500km、場合によって5000kmを超す設定の年もあるイベントだった。このルートで長年続けられた後、1961年に「リエージュ~ソフィア~リエージュ」に変更された。ヨーロッパでは非常にタフで過酷なイベントとして知られ、1961年の大会を例に挙げると、走行時間は90時間、全参加台数85のうち完走はわずか8台という壮絶な戦いだった。
そして1965年、この一般公道を使ったリエージュ~ソフィア~リエージュから、パーマネントサーキットのニュルブルクリンクにコースが移され、84時間(3日半)規模のレースとして開催されるようになっていた。マツダが革新的なパワーユニット、ロータリー・エンジンを積む新星コスモ・スポーツの実力立証の場として、この長距離耐久レースを選んだのは当然の帰結であり、高きハードルへの挑戦でもあった。
マツダは、1968年8月20~24日に開催されたマラソン・デ・ラ・ルート、ニュルブルクリンク84時間に、2台のコスモ・スポーツを送り込んでいた。1台はゼッケン18の古我信生/片山義美/片倉正美組の日本人トリオ、もう1台がゼッケン19のL.デルニエ/Y.デプレ/J.P.アッカーマン組の外国人トリオで、2台のコスモ・スポーツには耐久性を重視した軽いチューニングが施されていた。
レースは、51台が出走(エントリーは59台)。1周28.265km(28.291kmのデータもあり)の複合コース(北コースと南コースをつないだレイアウト)を84時間走って優劣を競ったレースである。2台のコスモ・スポーツは、周回(時間)を重ねるにつれポジションを上げ、レース終盤にはトップ10圏内を走る快走を見せていた。この2台は、ゴールまであと数時間という段階では、トップ5を走るところまでポジションを上げていた。残念ながらゴールまであと2時間というところで、日本人トリオが操る18号車が、リヤタイヤを飛ばしてリタイアしてしまったが、残る1台が4位でゴール。
1、2位は356周を走ったポルシェ911Eで、メンバーにはヘルベルト・リンゲ、ディエター・グレムサー、ウイリー・カウーゼン、ハンス・シュラーらが含まれていた。そして、ランチア・フルビア1.3HFが348周を走って3位でゴール。こちらもサンドロ・ムナーリらがステアリングを握る強豪チームだった。
こうしたレースでの実績を持つ車両を相手に、ロータリー・エンジンを積むコスモ・スポーツは、初出場ながら344周(実際は345周だったがペナルティで1周減算)を走り切ってみごとに4位で完走。一躍、ヨーロッパでマツダとロータリー・エンジンの名を高めることになった。
完走は26台。スターリング・モス/イネス・アイルランドらが操ったランチア・フルビア、BMW2002、ルノーR8ゴルディーニ、そして並み居るポルシェ勢を相手に総合4位で84時間を走り切ったコスモ・スポーツの成果は大健闘だった。
マツダは、このマラソン・デ・ラ・ルートを皮切りに、続くロータリーエンジン搭載の第2弾、ファミリア・ロータリークーペがスパ24時間で善戦する活躍を見せることになる。
なお、ニュルブルクリンクでのマラソン・デ・ラ・ルートは、1965年から1971年まで7回開催され、当初は84時間規模だったが、最終年となった1971年だけは96時間(4日間)に延長されて開催された経緯がある。
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