不世出のレーサー、高橋国光のレースキャリアと愛機たちを特集したauto sport特別編集『国光THE RACER』。その制作にあたって行なったさまざまな取材で得た証言には、高橋国光に直接関係しないことであるため本に収めなかったものが多数ある。そうした証言をもとに構成した逸話をご紹介する。今回はチームクニミツのドライバーとして活躍した飯田章とホンダF1をめぐる知られざる物語を綴る。
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「NSXでレースをすべき」暗礁に乗り上げた第1期ホンダNSX-GTプロジェクトを救った高橋国光の直訴
第1期NSX-GTプロジェクトのハイライトとなった1995年ル・マン24時間におけるチームクニミツのGT2クラス優勝。このとき、高橋国光、そして土屋圭市とともにホンダNSX-GT2のステアリングを握った飯田章が、やがてホンダF1に乗る道筋に立とうとしていたことはあまり知られていない。
1991年、21歳のときにその才能を見出されてニスモの契約ドライバーとなった飯田だが、プロのレーシングドライバーとしてやっていくつもりは実はなかった。しかし、周囲は彼を放っておかなかった。1993年には、鈴木利男とのコンビでグループAを戦うニスモワークスのR32 GT-Rのシートが用意された。また同年の飯田は、チームクニミツからの要請によってニスモからレンタルされる形で土屋圭市のパートナーとなりプレリュードでN1耐久に出場するという活動も行なっている。それは、グループAでやはりニスモメンテナンスのSTPタイサンGT-Rを駆っていた高橋国光が飯田に興味を持ったことが発端であった。彼を見込んだ国光は、翌1994年には、引き続きニスモ契約であった飯田をNSX-GT2によるル・マン24時間参戦に連れ出していった。
ル・マンを経験したことで飯田は「この世界でもうちょっと頑張ってみたい、という気持ちが出てきた」と言う。ただ、そんな本人の気持ちをはるかに先行する格好で、関係者たちは飯田をより高いレベルで走らせることを望んだ。それほどこの男には魅力的な才能があり、それを利用して自分もより高い次元の世界に挑んでみたいと周囲の者たちに思わせるものがあったのだ。
1994年の秋、飯田はノバ・エンジニアリングより全日本F3000選手権への参戦を開始した。そして同時期に飯田はF1日本グランプリを訪れ、当時ロータスのスポンサーを務めていたシオノギ製薬のオーナーである塩野家の人たちに引き合わされている。ロータスは財政破綻からF1参戦が同年限りとなることが見えていたが、初対面ながらも飯田に強い魅力を感じた塩野家は、彼を全日本F3000選手権で走らせるチーム・ノバをF1ロータスに替わってスポンサードすることを決めてしまう。つまり、結果的に1999年まで続いた『シオノギ・チーム・ノバ』は、そもそもは塩野家による飯田というドライバー個人への応援を出発点としたものなのであった。
彼の意志を超えてどんどん膨らんでいく飯田のレース活動。そこへ、また別な人々の企みが新たに加わってくることになる。それがホンダF1であった。
1992年をもって第2期F1活動を終えたホンダだが、残された火種が社内のあちこちでくすぶり続けていた。そしてF1再進出を睨み、水面下で様々な動きが行なわれていった。そうした中、日本の大手上場企業数社をスポンサーにつけ、エンジンのみならずシャシーも独自に開発してのフルワークス体制でF1に再参戦し、そのドライバーのひとりに飯田を起用する、という構想が描き出されていく。のちにティレルの残党たちへホンダが依頼してシャシー開発が進められ、テスト走行を繰り返すまでに至るもプロジェクトが取り潰しとなったホンダRA099より3年ほど前のことだ。つまり、1995年頃にもオールホンダによるF1復帰が企てられており、そのときには“日本人F1ドライバー飯田章”を誕生させようというプランまで練られていたわけなのである。
1995年は、全日本F3000選手権にシオノギ・チーム・ノバからフル参戦し、そしてル・マン24時間ではチームクニミツのNSX-GT2を駆ってクラス優勝を飾った飯田だが、1996年は突如としてヨーロッパに渡って国際F3000選手権を戦っている。サポートしてくれる日本人のエンジニアやスタッフなどはおらず、完全に単身で乗り込んでのレース参戦であった。チームは国際F3000選手権では中堅どころであったノルディック・レーシングで、マシンにはメインスポンサー名が見当たらなかった。だがその実、飯田の国際F3000選手権参戦は、F1に乗せることになる飯田をヨーロッパのレースやサーキットに慣れさせることを主眼にホンダが仕組んだプログラムであったのだ。
シャシーはローラ、エンジンはジャッド、タイヤはエイボンのワンメイクで行なわれていた1996年の国際F3000選手権に飯田はフル参戦した。上位フォーミュラの経験が1シーズン強しかなかった飯田であったが、各レースに25台程度が出走した中、一桁の順位でのフィニッシュを2度果たし、そして全10戦のうち9戦でレースを走り切ってみせた。
しかし、この1996年限りで飯田のF1への道は断たれ、彼はヨーロッパから日本に帰ってくることを余儀なくされる。飯田をF1に送り込もうとしたプロジェクトをホンダが突如として打ち切ったからだ。そればかりではなく、第1期NSX-GTプロジェクトのリーダーでもあった橋本健を首謀とする『RCプロジェクト』と呼ばれたF1シャシーの自社開発プロジェクトも終幕とされた。このときホンダは、社内各所でくすぶっていた火種のすべてに水をかけ、F1に関する動きをリセットしたのだった。四輪モータースポーツ活動をめぐるホンダの潮目が大きく変わったときであった。
当時のことを飯田は『国光 THE RACER』のための取材において次のように語ってくれた。
「1996年の国際F3000への出場は、ホンダのプロジェクトとして僕がF1を目指すためのものでした。でも実際には、ホンダからのお金は十分に出なかった。国際F3000のエンジンはジャッドのワンメイクで、『それにホンダがお金を出す理由がないから、出せないよ』となって。『で、どうする?』って言うから、自分で数千万円を借金して、国際F3000にはとにかく全戦出ました。F1に行く最後のところくらいは自分の力でやらなきゃダメだろうという思いがあったからですけど、結局、国際F3000を1年やったところで、ホンダがこのときのF1プロジェクトを打ち切ってしまった。それで僕も日本に帰ってくるしかなくなりました。まぁ、しょうがないですね。人生ってそういうもんですよ。多分ね」
「そもそも憧れはなかったF1だけど、レースをやればやるほど『もっと速いクルマに乗りたい』という気持ちになっていくから、『どうせやるなら一番速いクルマでレースをやりたい』と思ったんですね。それ以前の僕は、レースはいつやめてもいいと思っていたんだけど、もうこのときは『俺はこの世界で生きていくしかない。もう逃げられない。後戻りできない』と思っていた。それで、日本でのレース活動を全部やめてヨーロッパに行ったんだけど、ホンダの方針が大きく変わって『やめ!』となって、結局、日本へ帰ってくるしかなかった。その挫折感というのは本当に強かったですね。『レースなんかもういいや』となった。そこでパッとレースをやめちゃえばよかったのかもしれない。でも、そのときはやめられなかったんですね」
「そんな僕を救ってくれたのが国さんだったんですよ。『アキラ、一緒に乗ろう』って言ってくれて、それで1997年から国さんとRAYBRIG NSXで全日本GT選手権に出ることになったんです。そもそも国さんは、『こいつ、本当にF1に乗っちゃうかもしれない』と思って1996年に僕をヨーロッパへ送り出してくれたわけです。そんな僕が打ちひしがれて日本へ帰ってきたところへ手を差し伸べてくれたのも国さんでした。それは、国さんも二輪時代に同じような思いをされていたからかもしれないですね」
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auto sport特別編集『国光THE RACER』は好評発売中。電子書籍版は、本誌に掲載した写真を抜粋して32ページのフォトギャラリーを収めた特別バージョン『国光THE RACERーEbook special edition 電子版』として配信中だ。それぞれの詳細は下記のリンクから確認してほしい。
auto sport特別編集『国光THE RACER』:https://www.sun-a.com/magazine/detail.php?pid=12155
auto sport特別編集『国光THE RACERーEbook special edition 電子版』:https://www.as-books.jp/books/info.php?no=ASS20210121
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