圧倒的な強さを見せたスペシャルマシン
執筆:Mick Walsh(ミック・ウォルシュ)
【画像】戦前最速の1台 アラード・テールワガーII 同時期のブガッティとラゴンダも 全61枚
撮影:James Mann(ジェームズ・マン)
翻訳:Kenji Nakajima(中嶋健治)
フォード製のフラットヘッドV8エンジンといえば、アメリカのカーカルチャーで長い歴史を持つ。一方で1930年代の英国では、シドニー・ハーバート・アラードが生み出した最速スポーツカーの1台へ搭載され、存在感を示していた。
エキゾチックなアルファ・ロメオやブガッティのオーナーたちは、デトロイト産エンジンを載せたライトウエイト・スポーツを好ましくは見ていなかったようだ。だがアラードがレースに出れば、圧倒的な強さを見せつけた。
アラードとアメリカ製V8エンジンとの結びつきは、フォード・ツーリスト・トロフィのチームマシンの買い取りがきっかけ。1936年、クラッシュで破損したモデル48クーペをベースに、1台のスペシャルマシンを作り上げたのだ。
ブガッティのボディを、強化したフォードのフレームへ載せ、CLK 5というナンバーを取得。基本的な構成で軽量なマシンは、整備されていないコースを走るトライアルレースで大きな評判を巻き起こした。
片目が不自由なシドニーがステアリングを握り、勇敢な妻のエレノアが助手席へ窮屈そうに並んだ。フラットヘッドが唸りを上げ、オフロードセクションを突き進む。バラミーが開発した独立式のフロントサスペンションを、激しく上下させながら。
生まれたてのブランド、アラードを告知するため、スコットランドのベン・ネビス山への登頂も計画されたという。アラード・モーター社として設立される前のことだ。
FGP 750のナンバーを付けた2台目のアラード
ほどなくアラードの注文が舞い込み、オリジナルの1台も販売する。しかし、シドニー自身のために2台目のアラードを仕上げるには、2年が必要だった。
1938年の冬、ロンドン南西部、パトニーのアドラー・ワークショップは多忙を極めていた。12月3日のロンドン・グロスター・トライアル出場へ間に合わせるべく、シドニーの新しいアラード、通称テールワガーIIの製作が昼夜を問わず進められていた。
軽量化のためにボディは塗装されず、ファーナム・アボット社によるアルミニウム製ボディは、見事な輝きを放っていた。FGP 750のナンバーを取得し、ドライバーはマーティン・ソームズが担った。
イベント当日に3.9LのV8エンジンへ火が入れられると、騒ぎを呼ぶほどの排気音が響いたという。モータースポーツ誌は、FGP 750がホテルの駐車場で出発準備を整える最中、ライバルが集まった時の様子を鮮明に報告している。
「細身のヒップに巨大なリアタイヤを備える、美しい仕上がりです」。と、記者のHLビッグスは残した。ガイ・ウォーバートンも、最初に制作されたCLK 5のアラードで参戦。2台はイベントを支配し、錚々たるエントリーを抑え見事な勝利を収めている。
その後、シドニーのチームはFGP 750のアラードをチューニング。エグゾースト・マニフォールドを改良し排気効率を高める一方、キャブレターの調整も重ねられた。
0-97km/h加速8秒、0-400m16.8秒
1939年、アラードはスピード・イベントを中心に戦った。プレスコットはシドニーの得意としたイベントで、シングルシーターに次ぐ5番目のタイムを記録。FGP 750に匹敵するスポーツカーは存在しなかった。
続くイベントでも優勝し、6月にテールワガーIIはレストアされる。エンジンは4.8Lまでボアアップされ、エーデルブロック社製のマニフォールドと、ストロンバーグ社製のツインチョーク・キャブレターが2基組まれた。
クランクは91Aと呼ばれるものへ交換。ファンを駆動でき、ボンネットの高さを低くできた。ポート研磨され、フライホイールも軽量化。3.56:1のファイナルレシオが与えられた。
リフレッシュしたFGP 750、アラード・テールワガーIIは、0-400mダッシュで16.8秒を記録。それでもシドニーは満足せず、エンジンの圧縮比を高め、ワイドな7インチタイヤを履かせた。
仕上がったアラードは、助手席に人を乗せた状態で0-97km/h加速を8秒で達成。169km/hで800mを走るという、当時としては驚異的な記録を残している。だが、この性能は危険と隣り合わせだった。
シドニーは8月のプレスコットでスピン。テールワガーIIは立木に衝突しシャシーは激しく変形してしまうが、すぐにパドックで修理され、その日の午後に再び出走した。
イベントでは助手席の同乗者が必要で、モータースポーツ誌のビル・バディが果敢にも名乗り出た。フラットアウト走行では、2名乗車で最速記録を残す。
しかしゴール後にマシンが横転。バディは外へ投げ出されてしまう。幸運にも、大きな怪我は負わずに済んだという。
貴族に買われたアラード・テールワガーII
第二次大戦が始まるとテールワガーIIは売却され、1942年にハッチソンという人物が買い取る。アラードの「少ないことこそベスト」という考えを気にせず、彼は手を加えた。
ボディはアイボリーに塗られ、多くの部品がクロムメッキ加工かポリッシュされた。ハッチソンは4年間所有した後、ウェストミンスターの公爵一家で大富豪、メアリー・グローブナー卿へ1946年へ売り渡す。
1930年代からライレー・スプライトでラリーへ出場していた熱心なドライバーで、パワフルなマシンへ強く惹かれたのだろう。だが、貴族階級にアラードという聞き慣れないブランドは似合わない。イートンホール城の周辺には、馴染めなかったはず。
スプリントレースに出場後、メアリーはアラード社にテールワガーIIを送り返し、リビルドを頼んだ。その際、新しいフォード・マーキュリーのエンジンへ載せ替えられている。
FGP 750の印象的なエンジン音と跳ねるシャシーに、メアリーも驚いたと記録されている。1947年、彼女は英国西部のアングルシー島に住む自動車愛好家、ヘンリー・プリチャードへ売却した。
ガソリン価格は安くない時代だったが、ヘンリーは北部のイベントでは常連の人物。FGP 750を気に入り、16年間も維持していた。続いて、ヨークシャーでガレージを営むモーリス・ベテルが1966年に購入。アラードは、多彩なコレクションの仲間入りを果たす。
彼の父は、高性能すぎるアラードを好きになれなかった。いつか息子が運転中に死ぬのではと考え、売却を迫ったらしい。
エンジンは始動せずリビルドを決意
ちょうどその頃、くたびれたフォード・ポピュラーに乗るデス・ソワービーが、付近を通学路としていた。偶然そのガレージへ興味を抱き、定期的に立ち寄っていたという。
ソワービーが振り返る。「何度も顔を見せるうちにオーナーとの信頼関係を築け、彼は他のクルマも見せてくれました。モーリスは、何年もかけて多くのクルマを集めていました。その中に、カバーの掛けられたアラードを発見したんです」
「当初はMGを探していましたが、ワイルドなマシンへ強く惹かれました。提示された金額は1000ポンド。当時はそんな大金は準備できませんでしたが、お金が貯まるまで保有すると、彼は約束してくれたんですよ」
ウェールズ南部へ引っ越した頃に資金が貯まり、ソワービーはトレーラーを駆りてアラードを運搬。遂に手に入れたFGP 750だったが、多くの課題もはらんでいた。
「走行可能という話しでしたが、エンジンは始動せず。コアプラグがなかったんです。エンジンを下ろして修理を試みても動かず、完全なリビルドを決めたんです」。ソワービーが説明する。
仕事が忙しくなりプロジェクトは進まずにいたが、最終的にアラードはノースイースト・レストレーション・クラブ社へ入庫。シャシーは裸にされ、サンドブラストが掛けられた。徐々に、レストアが進んでいった。
「ロンドンへ仕事で引っ越したのですが、そこでアラードの第一人者、ジョン・パターソンと出会いました。彼は、大きな助けとなりました」
この続きは後編にて。
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