グループBの登場で爆発的に進化したラリー車
今年は10年ぶりにラリージャパンが開催されることになり、世界ラリー選手権(WRC)への関心が高まっているようです。WRCではこれまでに、車両規定が何度か変更されてきましたが、振り返ればそれまでのグループ4(Gr.4)からグループB(Gr.B)に主役が移行した82年は大きな節目となりました。
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82年シーズンは移行期間としてGr.4も参加できたのですが、やはり主役はGr.Bに移行しました。大きな理由はホモロゲーション(車両公認)で400台の生産が必要とされたGr.4に対してGr.Bでは、その半分の200台でよくなったこと。さらに20台のエボリューションモデルも認められ、参加メーカー各社による際限なしの開発競争が繰り広げられることになりました。そのような今でも、人気衰えないそのクルマたちを紹介しましょう。
ランチア・ストラトスの後継としてラリー037を開発
81年の末にランチア・ストラトスのGr.4としてのホモロゲーションが切れるランチア・チームは、いち早くラリー037を開発し、82年の4月にはホモロゲーションを取得していました。ストラトスでノウハウを蓄積したミッドシップの後輪駆動というパッケージを踏襲していましたが、エンジンを横置きから縦置きとして低重心化。運動性能を高めるとともに、ホイールベースを延長。ストラトスではナーバスに過ぎたドライバビリイティが随分と改善されていたようです。
それでもシーズン中盤にデビューした82年は、名手でエースのマルク・アレンをもってしても2回の入賞を果たしただけであとはリタイアの連続となっています。
しかし83年にランチア・チームは、82年にライバルであった後輪駆動のオペル・アスコナ400を駆ってチャンピオンとなったワルター・ロールを招聘し、アレンとロールによる4度の1-2フィニッシュを含めて計5勝を挙げマニュファクチャラーズタイトルを獲得することになりました。
ただし2人がポイントを分け合うことになった結果、ドライバーズタイトルは、ライバルだったアウディのエースを務めたハンヌ・ミッコラが獲得しています。
イタリアンレッドのベースモデルはイタリア北東部のルイジ・ボンファンティ自動車博物館で13年の年末に撮影。マルティニカラーの競技車両は15年の秋に高知県の四国自動車博物館で撮影したものです。
WRCで初めてターボ&4WDを採用したアウディ・クワトロ
後にはラリーカーの必須アイテムとして“三種の神器”とも評されることになるターボエンジンと全輪駆動(AWD)、そしてミッドシップレイアウトのうち、ターボとAWDを、ヨーロッパのメーカーとして初めてWRCに持ち込んだのがアウディでした。
アウディ80のクーペボディにAWDシステムを組み込むだけでなく、サスペンションも上級モデルのパーツを移植。全輪駆動=4輪駆動を示すクワトロのネーミングで80年に登場するとGr.4のホモロゲーションを取得し、翌81年の開幕戦から本格参戦を開始しています。
デビュー戦となったモンテカルロではエースのハンヌ・ミッコラが、結果的にはリタイアに終わってしまいましたが、それまではライバルを一蹴する速さで、AWDのアドバンテージを見せつけています。
さらにシーズン終盤にはターマックラリーのサンレモで女性ドライバーのミッシェル・ムートンが優勝。最終戦のRACではミッコラが優勝。翌82年シーズンはFRのオペルと好勝負を展開。ドライバーズタイトルはオペルのワルター・ロールに奪われましたが、マニュファクチャラーでは終盤の3連勝(計5勝)で逆転。Gr.2として最後のタイトルを獲得しています。
ワークスカラーの競技車は83年のGr.B仕様。赤いボディのロードモデルは、やはり83年に登場したエボリューションモデルのスポーツ・クアトロで、ともにインゴルシュタットのアウディ・フォーラムで撮影しました。
WRCのために“三種の神器”揃えた新規モデルを開発したフォード
フォードは小型乗用車のエスコートに、純レーシングユニットのコスワースBDAをチューンし直して搭載したRS2000でGr.4のホモロゲーションを取り、70年代後半のWRCで大活躍していました。
Gr.Bのマシンにおいてもフォードは、ライバルが市販車をベースにGr.B車両を製作しているのに対して、独自のアプローチを見せています。それは全く新規に立ち上げたクルマでGr.B仕様のラリー車を製作しようというものでした。
“三種の神器”を搭載することはもちろんですが、F1のデザイナーとして知られるトニー・サウスゲートが開発を統括し、アルミハニカム・モノコックを採用。ミッドシップに搭載したエンジンはBDAをターボで武装。そのエンジンから切り離したミッションを、デフと一体化してフロントに搭載するなどライバルのパッケージとは一線を画していました。
ただしこうした革新的なパッケージが災いしたか、ホモロゲーションに必要な200台の生産が間に合わずデビューが遅れてしまいます。さらにエボリューションモデルのホモロゲーションも叶わずロードモデルをベースにしたクルマで戦うことになるなど躓きの連続で、Gr.Bが終焉を迎える86年までそのポテンシャルを発揮することはできませんでした。
赤いボディのベースモデルは15年の秋に高知県の四国自動車博物館で撮影。ワークスカラーに塗られた競技車両はフランスのミュルーズにある国立自動車博物館、通称“シュルンプ・コレクション”で撮影しました。
“三種の神器”をコンパクトなボディに詰め込んだプジョー
504のような何の変哲もない4ドアセダンで参戦し、サファリラリーなどで活躍を見せていたプジョーが、本格的にWRC参戦を果たしたのは1981年にモータースポーツ専門のプジョー・スポールが設立されて以降のことでした。
最初の主戦マシンとなったモデルがGr.Bのプジョー205T16でした。205を名乗り、エクステリアも205シリーズに似たイメージですが、中身は全くの別物で、後にル・マンで優勝するプジョー905も手掛けることになるアンドレ・デ・コルタンツが設計を担当していました。
開発が始まった時にはアウディがAWDの威力を見せつけていましたから、当初からAWDを採用することは既定の路線となっていました。ただしフロントにエンジンを搭載していたアウディを分析し、よりコーナリング性能を高めるために、プジョーではターボで武装した直4エンジンをミッドシップに搭載するレイアウトを採用することになったようです。
そしてミッドシップAWDの中では軽量・コンパクトというアドバンテージも持ち合わせていました。85~86年と連続してダブルタイトルを獲得。83年から86年までの4年間、Gr.BがWRCの主役を演じた時代において、最後にして最強のGr.B車両となりました。
ガンメタリックのロードモデルはパリの近郊、ポワシーにあるアヴァンチュール・オートコレクションで、ワークスカラーの競技車両はフランス東部、ソショーにあるプジョー歴史博物館において、それぞれ撮影しています。
ターボパワーの後輪駆動でGr.Bに挑戦したトヨタ
WRCが始まる前年の1972年にオベ・アンダーソンを起用してラリーに本格参戦を開始したトヨタは、74年にはGr.4仕様のレビン(TE27)を投入。さらに76年には2リッターエンジンを搭載するGr.4仕様のセリカ(RA20)がデビューしています。
Gr.4ラストシーズンの82年はGr.4のセリカ(RA40)でシーズン序盤を戦い、第7戦のモトガード・ラリー(現ニュージーランド・ラリー)でGr.B仕様のセリカ(TA64)がデビューしています。このデビュー戦ではビヨン・ワルデガルドとパー・エクランドが1-2フィニッシュを飾り最高の滑り出しとなりました。
搭載するエンジンはベースモデルの3T-GT型のボアを0.5mm拡大した4T-GT型1.8リッター直4で、トヨタのラリーカーとしては初のターボ・エンジンでした。まだAWDの技術的なノウハウが蓄積されてなく、またミッドシップ(のスポーツカー)を200台生産するのも難しく、コンベンショナルなFRは、トヨタとして最も現実的な結論でした。
しかしストレート的ラフロードにおける高速争いにおいてFRは本領を発揮し、得意としたサファリラリーでは84~86年に3年連続の総合優勝を飾っています。
84年のサファリラリー優勝者は昨年のトヨタ・ガズー・レーシング・フェスティバルで撮影。テストとサファリでの実戦シーンなどはトヨタ自動車の広報部さんからお借りしました。興味深いのはFIAの検査に際して完成した車両がノーズを連ねたカットです。
外国のメーカーの中には100台を表の駐車場に並べて検査官のチェックを受け、昼食を摂っている間に100台を裏庭に移して午後の検査。100台で200台分の生産を確認してもらった、というような眉唾な“伝説”も囁かれていました。それにしても、Gr.B車両がこれだけ並ぶと壮観です。
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