マクラーレンのジョン・ワトソンが22番グリッドスタートから優勝を収めた1983年のF1アメリカ西GP。F1史上最も後方グリッドからの逆転劇は、どのようにして起こったのか? 前編ではワトソンとトレーナーのウィリー・ダングルとの出会いなどを取り上げたが、後編は決勝日の朝からの出来事をワトソンの回想と共に振り返る。
ロングビーチ市街地コースで行なわれたアメリカ西GP予選。ターボエンジンを搭載するルノーに合わせて設計されていたミシュランタイヤをうまく機能させられず、フォード自然吸気(NA)エンジンを積むマクラーレンはワトソンが22番手、ニキ・ラウダが23番手に沈んだ。
F1史上最高の逆転劇は、どのようにして起こったのか:1983年アメリカ西GP~前編~
当時のターボ勢はレースペースで苦しんだり、トラブルで離脱するケースも多かったため、NA勢にチャンスがなかった訳ではない。とは言え、20番台のグリッドからのスタートは、優勝はおろか入賞圏内のトップ6に入ることさえ厳しいと言えた。
ワトソンは日曜朝のウォームアップ走行である“決断”をするが、その決断が後々、大きな意味を持ってくる。
「日曜の朝、いつものように燃料を満タンにして、(ウォームアップの)時間になるとコースに出ていった。そこではタイヤに熱を入れるために、タイヤに負荷をかける。そうすれば、トラックのどこでもマシンをコントロールできるようになるからだ」
ワトソンはそう語った。
「ミシュランには“05”という仕様のタイヤがあった。それは私にとって一貫性のあるタイヤという印象だった。ニキは少しでも速く走れるタイヤを常に選んでいたが、その一方で特定の状況やコンディションに適応できない時もあった」
「彼は今回もよりグリップの高いと思われるタイヤを履いていたが、私は慣れ親しんだミシュランの“05”を履くことにした。その結果、私は最後までプッシュすることができた」
「(勝負を分けたのは)そのタイヤを選んだことだったんだ」
ワトソンはチームメイトのラウダがマルボロのプロモーション行脚で南米を回っている間、トレーナーのダングルとワンツーマンでレースへの準備を進めていたため、非常に前向きな気持ちでレースに臨むことができていた。さらに彼は昨年、デトロイト市街地コースで行なわれたデトロイトGPで17番グリッドから優勝しており、自信を持って攻めれば市街地コースと言えどオーバーテイクも可能であることを理解していた。
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