マタニティ・ホラー『マザーズ』(2016年)やリアル・ムーミン的物語『ボーダー 二つの世界』(2018年)で知られるアリ・アッバシ監督の最新作『聖地には蜘蛛が巣を張る』。2000年初頭のイラン・イスラム共和国で、16人の女性が犠牲になった連続殺人事件をベースにしたスリラー映画です。
聖地マシュハドで起きた娼婦連続殺人事件。「街を浄化する」という犯行声明のもと殺人を繰り返す“スパイダー・キラー”に街は震撼していました。事件の取材のために祖国に戻ってきたジャーナリストのラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)は、危険を顧みず果敢に事件を追います。しかし、一部の市民は犯人を英雄視し、さらに事件を覆い隠そうとする不穏な圧力にも晒されます。そして彼女はある夜、家族と暮らす平凡な一人の男の心の深淵に潜んでいた狂気を目撃することに……。
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本作の殺人鬼サイード(妻子あり)はイラン・イラク戦争に従軍しており、PTSDを患っていた可能性も大いにあるでしょう。英雄になれず殉死もできなかったことに対して“何者でもない”と苦しんだ彼が、唯一“達成できる仕事”が娼婦殺しだったのです。しかし誰がどう見ても、サイードの言う“浄化”は都合の良い自己満足でしかありません。本作では、殺人行為を擁護する一部市民や保守系メディアの不気味さ、信仰的な正しさを笠に着た“何でもジハード(聖戦)状態”の恐ろしさも、しっかり描かれています。
主演のザーラは、かつてはイランの国営ドラマにも出演する人気俳優でしたが、捏造スキャンダルによって祖国を追われた過去があり、ラヒミ役には彼女自身のパーソナリティも多分に反映されているそうです。そして、この物語が映画のための誇張ではないことは、2022年の「マフサ・アミニ事件」が証明しています。首都テヘランで、22歳のマフサ・アミニが「ヒジャブを正しくつけていない」という理由で風紀警察から暴行を受け、数日後に死亡した事件です。これを受けて過去に例を見ない規模の抗議デモが世界各地で起こり、いまも横暴なイスラム政権に対する抵抗は続いています。
そもそもイランでは売春は違法で重罪が課せられているにも関わらず、少なくないニーズがある……という事実に、宗教国家としての大きな矛盾が横たわっています。映画としては実話ベースだけに、最悪の結果がわかっているのでミステリ的カタルシスは殆どなく、陰鬱な気持ちで見守ることになります。鬼才アリ・アッバシ監督が意図的に“エンタメ”を封印し、今この瞬間も起こっているであろう残酷な現実を世界に突きつけているかのような衝撃作です。
劇中サイードは、バイクに乗って娼婦たちを誘い出します。彼が乗っているのは、中近東などで広いシェアを誇るホンダ中国のCG125。3人、4人乗りも当たり前の過酷な使用に耐えるタフさが人気の理由ですが、本作でも特徴的なデジタルメーターが闇夜に怪しく光っています。
『聖地には蜘蛛が巣を張る』は2023年4月14日(金)より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷、TOHOシネマズ シャンテほか全国順次公開です。
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