きっかけはロンドン・シドニー・マラソンラリー
「すみません。女王がいつ姿をお見せになるかご存じですか?」。バッキンガム宮殿のそばに立っていると、年配の女性が声をかけてきた。もうじきだと思いますよ、と自分は腕時計を確認して答えた。
【画像】カーボディーズFX4 サポートカーも努めた初代ディフェンダー 最新ロンドンタクシーも 全66枚
その瞬間、1988年7月の早朝が頭によみがえってきた。宮殿の門前で待っていたのはロンドンタクシー。目的地はオーストラリアのシドニーだった。
このアイデアをひらめいたのは、さらに20年ほど前のラリーがきっかけ。アルプス山脈を超えてパキスタンを抜けオーストラリアを目指す、ロンドン・シドニー・マラソンラリーへ出場するマシンの姿を目にし、憧れを抱いた。1968年11月の日曜日だった。
現実は仕事が忙しくなり、結婚し家族が増え、ラリーへ挑戦するような余裕はなかった。英国のサウスウェールズ州からオーストラリアのニュー・サウスウェールズ州へ引っ越しもした。
だが、シドニーの王立植物園を友人とうろついていた時、ふとマラソンラリーの話題に転じた。自分と似た考えを持つエドワード・ネッド・ケリーも、わたしのアイデアを気に入ってくれた。「やろうよ、ジョン」。ある日の夕方、コトが動き出したのだった。
それから2年間を掛けて計画を練り、準備を整え、バッキンガム宮殿の前に自分たちは降り立った。思いつきの冒険は慈善募金活動「グレート・キヤノン・タクシーライド」へ展開し、用意を整えていくうちに仲間は2人から6人に増えた。
1987年式カーボディーズFX4でシドニーへ
ガイ・スミスはロンドンのタクシー運転手で、カネリ・ツィロスはシドニーのタクシー運転手。どちらも厳正に選ばれた精鋭といえた。
旅の一部始終は、オーストラリアで映画製作を手掛けるマイク・ディロンが映像として記録した。チャールズ・ノーウッドは経験豊かなメカニック兼コーディネーター。物資などの供給も一手に引き受けた。
もう1人、話題性のために女性も呼んでいた。TVスターのデイム・エドナ・エヴァレッジだ。「タクシーメーターはオンね」。彼女が意気揚々とカメラに向けて話す。史上最長といえる賃走の出発を見送るのに、最適な人物といえた。
ロンドンのバッキンガム宮殿から、オーストラリア・シドニーに建つオペラハウスまでロンドンタクシーで走る、慈善募金活動の「顔」として適任だった。英国メディアは、彼女に好感を抱いていた。
われわれが乗り込む1987年式カーボディーズFX4、通称ブラックキャップの他に、2台のランドローバー・ディフェンダーがサポート車両として加わった。チームはグレートブリテン島の南部、ポーツマスのフェリー港まで足を進めた。
目の前に広がるのはイギリス海峡。いよいよ出発、という高ぶる気持ちが湧いてきた。
フェリーで夜のうちにフランスへ渡り、イタリアまでは高速道路が続き平穏。記録映画の内容を意識してモンブランの麓を経由し、アドリア海に面したキャンプ場で最初の夜を過ごした。
ボスポラスを渡りヨーロッパからアジアへ
スロベニアやクロアチアなどが属していた旧ユーゴスラビアへ入ると、トルコからやって来るメルセデス・ベンツの数が増えた。ロンドンタクシーは、予定日までにインドの国境へ到着する必要があり、できる限り先を急いだ。
キャンプ場で寝泊まりしながら、数日後にはトルコ・イスタンブールへ到着。カオスのような都市部の交通に紛れながら、ボスポラス海峡に掛かる橋を通過した。
運転手はガイ。助手席にカネリが座り、エドワードと自分はリアシート。ヨーロッパからアジアへ遂に足を踏み入れた。ここからが本格的な冒険だ、という思いで誰もが興奮していたはずだ。
その日の午後、運転を交代したカネリが悲鳴を挙げた。遅く走る対向車線のトラックを別のトラックが追い越している途中、さらに3台目のトラックが車線をまたいで追い越し始めたのだ。完全に前方が塞がれた状態だった。
あわや衝突という直前、ギリギリのところで3台目のトラックが2台目の後ろへ戻り、路肩に半分乗り上げていたロンドンタクシーの横を通過していった。その様子は、マイクがしっかり映像に残している。
そんな恐怖体験も交えつつ、トルコを横断。イランの国境が近づくと、イスラム教の国に馴染めるよう、頭から足までを覆う黒いチャドルに身を包んだ。1988年の国境検問所は官僚主義的で、効率が悪かった。36時間も足止めされた。
笑顔と握手、数本のタバコが善意の象徴
入国後はイランを短時間で通過できるよう、1日12時間走り続けた。国内の道は至るところで封鎖され、検問所が設けられていた。10代の若者が、マシンガンのカラシニコフを首から下げていた。
笑顔と握手、数本のタバコが、国を越えた善意の象徴だと確認させられることになった。出会う人々は友好的だったが、当時の情勢を鑑みてハイバル峠の通過は選択になかった。パキスタン南部のバロチスタン州が、ロンドンタクシーのルートになった。
砂漠と岩場が入り交ざった荒野を、砂埃を巻き上げながら連日カーボディーズは疾走。ダートに疲れた一行は、小さな村で夜を過ごした。オーブンで焼かれる地元のパン、チャパティの匂いと一緒に。夜は物音1つなくなり、満天の星空のもとで寝た。
走り続ける限り、ロンドンタクシーに据えられた2台のメーターは上がっていった。片方は英国ポンド、もう一方はオーストラリア・ドルで料金が示されていた。目的地へ到着した時点で、距離単価がどれだけ違うのか確かめることも、楽しみの1つだった。
パキスタン中西部のクエッタは文化のるつぼ。美味しい屋台料理にありつけ、アフガニスタンを目指す人にも大勢出会った。インドの国境までは残り約600マイル(965km)。3日間で到着する必要があった。
1980年代、パキスタンからインドへ陸路で入国する場合は、ワーガにある検問所以外にルートがなかった。しかも、通行できるのは毎月の2日と12日、22日という3日間だけ。シドニーへの到着予定日から逆算すると、10日の差は大きかったのだ。
この続きは後編にて。
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