勇敢なパイロットが所有していたクラシック
特別な経歴を持つ人物がオーナーだったビンテージモデルを所有することは、他では得られない貴重な体験を与えてくれる。ロンドンに拠点を置くクラシックカー・ディーラーを営む、ピーター・ブラッドフィールド氏は実際にそれを経験する1人だ。
【画像】フレイザー・ナッシュ TTレプリカ 同年代のクラシック・スポーツと写真で比較 全120枚
20世紀前半に存在したインヴィクタ社のモデルで、かつて英国空軍の飛行場だったグッドウッド・サーキットを楽しんでいる。「会場までクルマで自走し、当時のスタイルでレース・イベントに参加するんですよ」
「レース前の車検を受けるために、かなり早く出発する必要があります。80年前の様子を思い浮かべながらね」
第二次大戦中、勇敢なパイロットだったオリバー・バートン・ジェームズ氏が所有していたのが、フレイザー・ナッシュ TTレプリカ。BMK 102のナンバーを付けたクラシックのステアリングホイールを握ると、ブラッドフィールドの気持ちを理解できる。
彼とともにレストアを手掛けたのが、現オーナーのパトリック・ブレイクニー-エドワーズ氏。2人は、その過程で明らかになった映画「大脱走」のようなジェームズの人生にも、強く惹かれたという。
欧州全体の雲行きが怪しくなっていた時代に、ジェームズは兄のアレックス、レスリーと連れ立ち、パイロットを志願して英国空軍へ登録した。18歳で訓練生に選ばれた彼は、タイガー・モスで初めて単独飛行。自らの希望を実現させた。
仲間の将校から譲り受けたTTレプリカ
記録によれば、ジェームズは幼い頃から空を飛ぶことを夢見ていたようだ。飛行技術を認められ、ほどなく軍曹に昇進。グレートブリテン島の東部、リンカンシャー州スキャンプトンに拠点を置く第83飛行隊に配属された。
初任務は、ハンドレページ・ハンプデン爆撃機によるドイツの夜間爆撃。極めて危険な飛行だった。1920年代に夫を亡くし、3人兄弟を1人で育て上げた母は、さぞかし心配だっただろう。
その頃のジェームズは、移動手段としてバイクに乗っていた。グレートブリテン島南部のソールズベリーにある実家へ、定期的に帰っていたという。程なくして、仲間の将校からフレイザー・ナッシュ TTレプリカを譲り受けた。
ボディはブラウンとアイボリーのツートーン。BMK 102のナンバーで登録され、メドウズ社製のエンジンを搭載した1934年式で、ジェームズはフレディというあだ名で呼んでいた。愛犬のテリアを助手席に乗せ、冒険的なドライブを楽しんだという。
だが、ボンネットを開けてエンジンの様子を確かめることは、あまりしなかったようだ。戦時中はガソリンが品薄で、長時間エンジンを回していると異常燃焼を起こすことも珍しくなかった。
ある日、メドウズ・ユニットは郊外の道でコンロッドが抜けてしまった。だが、通りかかった大型トラックのドライバーが、フレイザー・ナッシュを牽引してくれた。ロンドンの西にあるアイルワースの修理工場までは、130kmほどあった。
任務中に被弾したハンプデン爆撃機
「フレディは快調。辛い人生も耐えようという気持ちにしてくれます」。母への手紙で、彼はこう綴っている。
1940年10月の夜中、友人と一緒にドライブしていると、操作を誤り道路から逸脱。フレイザー・ナッシュは転げ落ち、横転してしまった。助手席の友人を殺してしまったと一瞬焦ったようだが、少し気を失っていただけだった。
近年になりレストアを受けた際、木製のボディフレームに損傷の跡が残っていた。この事故で付いたものだろうと考えられている。
フレイザー・ナッシュが修理に預けられると、ジェームズは兄のレスリーからオースチン・セブンを借りた。兄弟は3人ともクルマが大好きだった。長男のアレックスはシンガポールに駐留していたが、そこでベントレーに乗っていたようだ。
戦火が激しくなると、第83飛行隊の出撃回数は増えていった。ドイツのベルリン、ハンブルグなど、各地での爆撃任務に当たった。しかし反撃も厳しく、毎週1機は機体を失うという状況が続いた。
1941年3月21日、第83飛行隊はドイツ軍の航路を遮るべく機雷投下の任務へ出撃。ハンプデン爆撃機はスカンプトン空軍基地を午前2時に離陸し、目標へ向けて飛行を始めた。
ジェームズの部隊はフランス北部モルレー近くの海岸へ接近し、高度700フィートまで降下。機雷を落とそうかという間際、ドイツ軍による高射砲の嵐が襲った。ハンプデン爆撃機の左翼で回転していた、ブリストル・ペガサスエンジンが被弾した。
義手で操縦桿を握ったホーカー・タイフーン
双発の片方を失い、単発飛行に合わせて操縦系を調整するものの安定せず、高度450フィートで翼端が丘陵地帯に接触。そのままハンプデン爆撃機は墜落し炎上してしまう。
ジェームズは飛行服が焦げてしまったが、一命をとりとめた。ほかの乗組員は命を失っていた。
彼は近くの農場へ助けを求め、その後ドイツ軍の捕虜に。顔と腕に怪我をしていたが、モルレーの病院で治療を受け一時は回復する。ところが、ドイツ軍の医師は左手の切断を決めたという。
退院後は収容所に隔離されるが、ジェームズは別の捕虜とともに脱出を敢行。フランス市民の助けを借りてパリへ逃げ、3週間ほど潜伏してから南部のマルセイユまで移動。ピレネー山脈を超え、スペイン南部のビラジュイガへ逃亡した。
さらに英国へ戻るには、3か月も要したという。ジェームズは殊勲飛行勲章を与えられている。
故郷へ戻った彼は、ロンドンの西にあるクッカムという町で結婚。フレイザー・ナッシュはウェディングを祝うため、ガレージから連れ出された。
穏やかな暮らしは半年ほどで終わり、ジェームズは再び英国海軍から招聘。義手で戦闘機の操縦桿を握ることになる。
ホーカー・ハリケーン戦闘機に続いて、24気筒2000馬力のエンジンを搭載するホーカー・タイフーン戦闘機で飛行訓練を終了。困難な地上攻撃任務部隊として、1943年5月に第245飛行隊のパイロットに着任した。
この続きは後編にて。
申込み最短3時間後に最大20社から
愛車の査定結果をWebでお知らせ!
申込み最短3時間後に最大20社から
愛車の査定結果をWebでお知らせ!
愛車管理はマイカーページで!
登録してお得なクーポンを獲得しよう
申込み最短3時間後に最大20社から
愛車の査定結果をWebでお知らせ!
申込み最短3時間後に最大20社から
愛車の査定結果をWebでお知らせ!
店舗に行かずにお家でカンタン新車見積り。まずはネットで地域や希望車種を入力!
みんなのコメント
この記事にはまだコメントがありません。
この記事に対するあなたの意見や感想を投稿しませんか?