レース界に君臨してきたR30からR34まで
歴代モデルの多くがモータースポーツで活躍してきた日産・スカイライン。前編は、日本グランプリでポルシェとバトルを繰り広げた2代目のS50系、直6ツインカムを搭載した3代目のC10系GT-R、究極のツーリングカーに昇華したボディ/ホイールベースを切り詰めた2ドアハードトップ仕様のGT-R=KPGC10を紹介した。しかし、4代目のGT-Rはレースにデビューすることも叶わず、さらに5代目以降はラインアップしなかったために姿をみせることなく、ファンにとっても苦しい時代となった。
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しかし、6代目に用意されたRSターボが、80年代に「シルエットフォーミュラ」としてサーキットに復活。また、8代目(R32系)で新世代のGT-Rが登場するやグループA車両による全日本ツーリングカー選手権(JTC)で連戦連勝。さらにJTCが終焉を迎えた後は全日本GT選手権(JGTC)に活躍の舞台を移し、9代目、10代目と3代続けてトップコンテンダーに君臨。フェアレディZにバトンを渡して勇退となっていく。
今回の列伝2では、R30系のRSターボと、JTCを制圧したBNR32、JGTCで活躍したBNR34の3モデルの活躍を振り返ることにしよう。
派手なシルエットで最前線に復帰した6代目
3代目スカイラインであり、「GT-R」としては初代モデルのC10系GT-Rは、2ドアハードトップ仕様で究極のツーリングカーに昇華したことは列伝1でも触れたとおり。その後継モデルは、4代目のC110系にGT-Rがラインナップされ、5代目のC210系はラリーなどでの活躍もあったが、両者ともサーキットデビューを果たすことなく、6代目のR30系へと代替わりすることになった。
1981年の8月に登場したR30系も直6エンジンを搭載したGTシリーズを当初からラインアップしたが、GT-Rの設定はなかった。しかし、直4ツインカムを搭載した”RS”が追加設定され、やがてRSターボ、RSターボ・インタークーラー付きとバージョンアップ。6気筒でなかったためにGT-Rを名乗ることはなかったが、“史上最強のスカイライン”と呼ばれ、レース仕様の登場にも期待が高まっていった。
そんなファンの期待に応えるように、82年にスカイラインはサーキット復帰。ツーリングカーではなく、当時人気を博していたスーパーシルエットレースが舞台だった。デビュー戦となった5月、富士GCのサポートレースでは、残念ながらトラブルでリタイアしたものの「最終コーナーを立ちあがってくるとスタンドが湧きあがっているのが分かった」と長谷見がコメントしたように、まずはその人気でライバルを圧倒。8月の富士で初優勝を飾る。
翌83年には、マイナーチェンジに合わせてフロントビューを“鉄仮面”に変更し、84年シーズン終了まで活躍した。年末恒例となっているニスモ・フェスティバルには常連として出場し、昨年も歴代マシンに交じって元気な走りを披露していた。
一方深紅のRSターボは、前期モデル。フロントビューは“鉄仮面”となる前のコンサバな仕上がりを見せている。テールライトも、スカイラインでは“お約束”となっていた丸型4灯を採用していた。
直6とアテーサを手に入れた第2世代のGT-Rへ
1985年のフルモデルチェンジで7代目に移行したスカイラインだが、やはりGT-Rが販売されることはなかった。ただし、GTS-Rと呼ばれるホモロゲーションモデルが登場し、グループAレースで活躍。同時に、次期スカイラインにGT-Rをラインアップすべく、精力的に開発が続けられていくことになった。
そして89年5月のモデルチェンジで8代目に移行したスカイラインには、半年遅れでGT-Rを追加設定。「GT-R=直6ツインカムエンジンのマシン」という公式通り、ツインターボで武装されたRB26DETTエンジンを搭載。2568ccという排気量と、アテーサE-TSと呼ばれる4輪駆動システムを搭載していることも注目された。
これらはいずれもグループAのレギュレーション(車両規則)を徹底的に分析した結果。グループAでは排気量によって最低重量やタイヤサイズ、燃料タンク容量が事細かく決められていて、このパッケージングが、結果的に競争力が最も高くなる、との判断によって決められたものだ。
さらにチューニングが厳しく制限されているグループAを優位に戦うために、冷却気用のダクトや空力パーツを組み込んだホモロゲーションモデル「GT-R NISMO」が追加されたのも大きなニュースとなった。
29連勝で目論見どおりにグループAレースを席巻
89年の10月に登場した新世代のGT-R(BNR32)は、翌90年の全日本ツーリングカー選手権にデビュー。開幕戦の舞台となった山口県の西日本サーキットには、約20年ぶりとなるGT-Rのサーキット復活に、4万1000人のファンが駆けつけた。
決勝日は酷い渋滞となり、「クルマが全く進まず、レースに間に合うかヒヤヒヤした」という日産の関係者も少なくなかったようだ。そんなデビューレースは、星野一義/鈴木利男組と長谷見昌弘/アンデルス・オロフソン組、2台のGT-Rがフロントローから好スタート。3位以下を総て周回遅れに蹴散らす快走でライバルを圧倒し、見事なワン・ツーフィニッシュで復帰戦を飾ることになった。
そこから連戦連勝が続くことになるのだが、実はGT-Rは駆動系がアキレス腱となっていた。550馬力以上のハイパワー/トルクを、4輪駆動システムを介して路面にすべて伝えることで、駆動系にシワ寄せが来ていたのだ。デビュー戦でも長谷見組はミッションが音をあげてしまい、星野組から1周遅れとなっている。それでも3位には1周以上の差をつけていたのだが…。
ともかく、ライバルに対してポテンシャルでは圧倒的な差があったから、2戦目以降は、駆動系を気遣いながらもGT-Rがその速さを見せつける展開となった。そして93年シーズンでグループAによる全日本ツーリングカー選手権が終了するまで、デビュー戦からの全29レースを無傷のまま、29連勝を飾ることになったのだ。
カルソニックブルーに塗られた12号車はデビューシーズンに6戦5勝、2位1回と圧倒的なパフォーマンスを見せつけて、見事チャンピオンに輝いた星野一義/鈴木利男組のクルマ。
直6の“呪縛”から解放、究極のスカイラインに
グループAによる全日本ツーリングカー選手権(JTC)は1993年限りで終了。94年からは全日本ツーリングカー選手権(JTCC)へと衣替えすることになった。こちらのレース車両規則は、2ℓ以下の4ドアセダンによる戦いだったため、2.6リッターの2ドアクーペであるGT-Rが参戦することは不可能だった。
そこでスカイラインの新たな舞台として用意されたのが、全日本GT選手権(JGTC:現・SUPER GTの前身)。当初はグループAに出走していたマシンそのものに手を加えての参戦だったが、やがてJGTC専用に開発されるようになった。
GT選手権レースではスカイラインGT-Rとトヨタのスープラに加えて、90年代終盤からはホンダNSXが登場。メーカー対決の様相からバトルだけでなく、車両の開発競争もみるみる激化していった。ミッドシップ2シーターのNSXはともかく、同じくライバルであるスープラも、直6エンジンから直4エンジンにコンバートするなどのパッケージングに手を入れてきていた。
これに対してGT-Rは、エンジンの搭載位置をより低く、より後方に移動させ、98年にはR33型でチーム&ドライバーのダブルチャンピオン、99年にはR34型を投入してドライバーチャンピオン、01年にはチームチャンピオン、と健闘。しかし、GT-Rのお約束でもあった直6ツインカムは、次第に大きな“お荷物”となっていく。
02年、ベースモデルのR34GT-Rの生産が終了するのを待ってRB26DETTからV6ツインカムのVQ30DETTを搭載したマシンを投入。呪縛を解かれ、第3戦のSUGOでニスモの1台がVQ仕様でデビュー。セパン遠征ラウンドを挟んで第5戦の富士では全車がVQ仕様にコンバートされた。
残念ながら02年シーズンは未勝利に終わったが、翌03年には陣営全体で3勝を挙げ、彼ら自身は優勝こそなかったものの、着実にポイントを稼いでいった23号車の本山哲/ミハエル・クルム組がドライバーズチャンピオンに輝く。そしてニスモはチームチャンピオンにも輝いてダブルタイトルを獲得。22号車は第2戦で勝ちニスモのチームチャンピオンにも貢献した影山正美/リチャード・ライアン組のマシン。スカイラインGT-Rのラストシーズンに花を添えることになった。
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