常識を覆す革新的な自動車
1949年の自動車シーンは、前年にビッグネームが相次いで発表されたことから、期待薄な年だったかもしれない。
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しかし実際には、フェラーリ初のロードカーが登場したり、各社でまったく新しいデザインが採用されたりと、世界中で革命的な変化が見られた年だった。
それは、戦争時代を乗り越え、新たな繁栄を享受しようとする人々のムードと呼応していた。
今回は1949年に登場した素晴らしいクルマの中から、欧米で販売されたものを中心に、特に興味深い22台を紹介しよう。
アラードP1
ロンドン生まれのシドニー・アラード氏は、米国製V8エンジンを英国製のシャシーとボディにマッチさせた最初の1人だ。多くの点で先見の明があったと言える。
この年、自身の名を冠したアラードという自動車メーカーをさらに拡大するべく、2ドア・ボディのP1を投入する。フォードやマーキュリーから流用した荒々しいエンジンなど、その競技用車両としての血統は明らかだった。
当時の欧米は、戦時中の貧しい雰囲気が薄れ始める中、より華やかなクルマを求めつつあった。アラード氏はその世相を読み、P1に競技性を持たせて魅力を高めた。モンテカルロ・ラリーの歴史において、自らの名を冠したクルマで優勝した唯一の人物となっている。
オースチンA90アトランティック
英国は第二次世界大戦で勝利した側とはいえ、莫大な借金を抱えて無一文になってしまった。このため、戦後間もない時期には「輸出か、死ぬか」という気風が高まり、多くの英国車メーカーが収益性の高い米国市場への参入を試みた。
オースチンが開発したのはA90アトランティックで、最初はコンバーチブル、次にクーペを発売した。残念ながら、米国ではエンジンが小さすぎ、英国では価格が高すぎるとして商業的には失敗した。
ダブルの「A」バッジや三つ目のフロントランプなどのディテールは、今見ると魅力的な時代物であるが、当時は販売にほとんど貢献しなかった。
合計8000台ほどが生産されたが、現在では世界でわずか60台ほどしか残っていないと推定される。しかし、アトランティックのエンジンとトランスミッションは1954年に登場したオースチン・ヒーレー100/4に受け継がれた。
ボンド・ミニカー
戦後、自動車はさまざまな方向に進化していったが、ローリー・ボンド氏は小型軽量のミニカーこそが進むべき道だと考えていた。
英国で燃料配給制がまだ実施されていた当時、排気量122ccのバイク用エンジンのおかげで40km/l以上の低燃費を実現し、また三輪車とすることで価格も低く抑えた。アイデアは悪くない。
困ったことに、ミニカーが登場したのは徐々に華やかさが求められていた時期で、モーリス・マイナーなどのライバルは四輪車だった。
その結果、ミニカーは奇妙な存在として認知されるにとどまったが、後のスエズ危機による燃料不足の時期には人気を博し、1965年まで生産された。
ブリストル401
ブリストルは航空機メーカーらしく、厳しい基準で401を開発・生産した。風洞実験によりボディ形状を改良し、当時最も空力特性に優れたクルマの1つであった。
2.0LのBMW製直列6気筒エンジンの出力は85psに過ぎなかったが、ブリストル401では最高速度97マイル(156km/h)を記録した。
生産台数は611台に達し、ブリストルの中でもかなり多い部類に入る。また、アルミ製ボディと厳格な品質管理により非常に高い生存率を誇り、現在ではクラシックカーとして珍重されている。
バックラーMkV
デレク・バックラー氏は英国における「キットカー」文化の起点に立つ人物で、バックラーMkVは自作キットまたは完成車の両スタイルで販売された。
購入者が自宅でキットを組み立てれば税金を免れるし、自分で作るのが面倒であれば工場出荷の完成車も手に入れられる。いずれも1172ccのフォード製エンジンで軽快なパフォーマンスを発揮する。
「MkV」という車名から同社5番目のモデルかと思われるかもしれないが、実際には同社初のモデルである。創業者のバックラー氏は、購入者に実績のない企業と思われたくなかったため、あえてこのような名前を付けたのだ。
バックラー氏はMkV向けのチューニングキットも販売し、モータースポーツに挑戦するドライバーを支えた。
ダッジ・コロネット
長命な「コロネット」の名は、1949年に導入されたダッジの新しいボディスタイルから始まった。
低く張り出した曲線的なボディ形状など、戦前期のスタイリングから大きく前進した。この外観が消費者に喜ばれ、セダン、ステーションワゴン、クーペ、さらにはリムジン版も登場して商業的な成功を収めた。
エンジンにはV8ではなく230立方インチ(3.8L)の直6を搭載し、最高出力103ps、最高速度145km/hを達成する。足踏み式セレクターの3速ATも用意された。
フェラーリ166インテル
1949年まで、フェラーリはレーシングカーしか生産していなかった。同社初のロードカーは166インテルであり、これを機にまったく新しい未来が切り開かれた。
イタリア人技術者のジョアッキーノ・コロンボ氏が設計した2.0L V12は、当時の他車と比べると非常にエキゾチックなエンジンだった。
ボディは複数のコーチビルダーが製作した。その大半はミラノのトゥーリング社によるものだが、他社も洗練されたものからちょっとダサいものまで、さまざまな形を提案した。
ほとんどがクーペで、フェラーリ初の量産モデルとしてクラシックカーの世界でも人気が高い。
フォード・アングリア
E93A型フォード・アングリアは現代で言うところのフォード・フィエスタであり、欧州の多くの人に「人生で初めて運転するクルマ」として選ばれた。
アングリアは他の堅苦しいライバル車に比べれば運転しやすかった。そのシャシーとエンジンはチューニング会社からも支持を集め、さまざまなスポーツカーのベースとなった。
1949年の発売から1953年の生産終了まで、E93Aは10万8000台が販売された。しかし、モーリス・マイナーやスタンダード8などのライバル車が近代的に発展していく中で、徐々に時代遅れとなっていった。
フォード・カスタム
質素ではあるが、フォード・カスタムは「ビッグスリー」が戦後初めて発表した新デザインであり、米国車の歴史において重要な位置を占めている。第二次世界大戦前に遅れをとっていたフォードの威信をかけたモデルだった。
エンジンは、226立方インチ(3.7L)6気筒と239立方インチ(3.9L)V8などを先代モデルから引き継いでいる。それ以外はすべて新しく、2ドアおよび4ドアのセダン、クーペ、コンバーチブル、ステーションワゴンなど、ボディ形状も豊富だった。
先進的なサスペンションと魅力的なスタイリングで、カスタムは大ヒットを飛ばし、コンサルやゾディアックなど1950年代の多くの欧州フォード車に影響を与えた。
フレイザー・ナッシュ・ミッレミリア
フレイザー・ナッシュは、第二次世界大戦前後のレースでの活躍により名を馳せた。そこから、有名なイタリアン・レースを連想させる「ミッレミリア」という名のモデルが発売された。
しかし、購入できる人が少なかったためにわずか12台しか生産されなかった。優れたル・マン・レプリカをベースにしており、エンジンはわずかにデチューンされたものの、決して性能不足というわけではなかった。
ミッレミリアは鮮やかな加速と素晴らしい走りを見せてくれる。
ヒーレー・シルバーストーン
ドナルド・ヒーレー氏はエースドライバーであり、メーカーであり、ホイールディーラーでもあった。
シルバーストーンは強力なパフォーマンスと優れたハンドリングを実現し、モータースポーツで瞬く間に成功を収めた。しかし、人気のナッシュ・ヒーレーの生産に集中するため、シルバートーンは早々に生産中止となった。
簡素化されたシルバーストーンは優れたレーシングカーであったが、ヒーレー氏はロードカーとしても考えていた。軽量化のため、スペアタイヤがリアから少し突き出るような形状で、リアバンパーを兼ねる設計となっている。週末のレースでは、すぐに取り外して車体を軽くすることもできる。
リンカーンEL
1949年モデルのリンカーンELは、最上級のラグジュアリーと快適さを求める人々に向けたクルマだ。フルサイズで、4ドア・セダン、コンバーチブル、2種類のクーペがあり、それぞれ流線型の外観を持つ。
セダンは、1960年代まで続くリンカーンのトレードマークであるリアヒンジのバックドアが特徴的だ。いずれも先進的なものを求める米国の消費者に人気があった。
エンジンはリンカーンの伝統にとらわれず、V12の代わりにV8を採用した。親会社フォードによる合理的な判断だったが、336立方インチ(5.5L)のV8エンジンはパワーもトルクも不足はなかった。
マンツ・ジェット
名前の通り、決して内気で地味なクルマではない。米イリノイ州の実業家で自称「マッドマン(狂人)」ことアール・マンツ氏が発売したもので、「パーソナルな高級自動車」と宣伝された。
取り外し可能なハードトップを備えたコンバーチブルで、非常に低く構えたアルミニウムの流線型ボディが特徴だ。キャデラックまたはフォードのV8エンジンを搭載し、どちらもスムーズで速い走りを実現した。
しかし、過剰な生産コスト、ディーラー網の不足、既存の高級車メーカーとの競争などが重なり、わずか198台の生産で頓挫した。ミッキー・ルーニー氏やグレース・ケリー氏のような著名な顧客が付いても、マンツを財政的な瀬戸際から救い出すことはできなかった。
MG TD
発売された当時でさえ、MG TDは他のスポーツカーと比べると時代遅れに思える。
ブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)の内部抗争により、TDは後継のTFが登場する1953年まで販売され、1955年にはようやく新型MGAが投入された。
TDは米国で成功を収め、合計2万9664台を販売した。純正のチューニングキットを装着すれば、最高出力を54psから90psにまで引き上げることができた。
ナッシュ・ステーツマン
ステーツマンは、ナッシュが空力性能を追求した新モデルである。そのため滑稽なほど丸みを帯びたフォルムとなり、車輪はフェンダーにすっかり覆われている。
このスタイルはエアフライト・スタイルと呼ばれていたが、前輪を十分に回転させることができなかったため、旋回半径はひどいものだった。
わずか2年で設計変更され、1952年モデルからはクロームメッキを多用したフロントエンドに切り替わっている。
しかし、1949年の初期型は、ボディとシャシーの別体構造が主流だった時代にユニボディ(モノコック)構造を採用したことで注目された。
オールズモビル88
オールズモビル88は、1940年代末期の米国の楽観的な自動車デザインを象徴する、トレンドと活気に満ちたクルマである。
未来的なボディデザインにロケットというV8エンジンを搭載し、世界初のマッスルカーとして広く知られている。1950年代のロックンロールの名曲『Rocket 88』にも登場する。
そのような歴史的な位置づけを持つ88は、単なるロードカーにはとどまらず、NASCARでもトップクラスの成績を収めた。1949年には9戦6勝、1950年には19戦10勝を挙げ、NASCARの王者に躍り出た。
ポルシェ356
1948年に手作業で組み立てられた356が何台かあったが、本格的に生産が開始されたのは1949年のことだった。
これら初期の「Pre-A」モデルは1100ccエンジンを搭載し、軽量かつ空力に優れたボディ形状を頼りに、まずまずのパフォーマンスを発揮した。
初期の356を見分けるのは簡単で、フロントウィンドウは1952年に1枚の曲面ガラスが導入されるまで分割式だった。
オーストリアからドイツ・シュトゥットガルトへの工場移転に伴い、当初はクーペのみが販売されたが、その後カブリオレも販売されるようになった。
ポルシェ356は現在、コレクターの間で非常に珍重されており、それに見合った価格が付けられている。
ロールス・ロイス・シルバードーン
ロールス・ロイスのまったく新しい時代を告げるクルマとして、シルバードーンほどふさわしいものはない。
運転手付きよりも自分で運転することを好むオーナーをターゲットにした、同社初のコンパクトなモデルである。また、外部のコーチビルダーに頼るのではなく、社内で標準化されたボディを初めて採用した。
シルバードーンは手頃なロールス・ロイスという意味合いが強かったが、何事も相対的なものであり、1949年当時の平均的な住宅価格の約6倍もした。
その分、ベントレーMkVIよりもわずかにデチューンされたエンジンを搭載し、重厚な走りを手に入れた。
ローバーP4
ローバーP4は、今日では銀行の支店長や中堅幹部クラスが選ぶような保守的なクルマと見られるかもしれないが、当時のローバーとしては急進的な設計だった。
一体感のあるモダンなフェンダー造形と米国車風のスタイリング、「サイクロプス」と呼ばれる特徴的なセンター・スポットランプが採用された。
一方で、快適性や洗練性というコアバリューを維持し、多くの支持を獲得した。P4が英国国民の日常にやさしく溶け込むにつれ、やがて「おばちゃん」というニックネームがついた。今でも人気のクラシックカーである。
サーブ92
サーブ92は1949年に発表され、同年12月12日に量産車第1号がラインオフした。
航空工学にインスパイアされた効率的なフォルムはまさに革命的で、最高出力わずか25psの小さな764cc 2気筒2ストロークエンジンを最大限に活用している。
当初は外装色としてダークグリーンのみが提供されたが、これは戦時中の余剰品として最も手頃な価格で手に入る塗装だったためである。
92は、スウェディッシュ・ラリーやモンテカルロ・ラリーといった名高いレースで勝利を重ねた。1952年にはカラーバリエーションが増え、トランクリッドも開くようになった。
トヨタSD
1949年のトヨタにとって、SD型乗用車は再起に向けた第一歩だった。SDはわずか665台しか生産されなかったが、その影響力は広範囲に及び、手頃な価格の小型車という進むべき道を示したのである。カローラのご先祖と言っても過言ではない。
995ccの4気筒エンジンで最高出力27psと心細いが、タフで信頼性が高かった
そのスタイリングは、明らかに米国のフルボディ車の影響を受けている。SDはSF、SH、RHへと受け継がれ、トヨタを世界的な成功へと導いた。
トライアンフ・メイフラワー
トライアンフ・メイフラワーは、現代で言うアウディA3やBMW 1シリーズのような高級志向のコンパクトモデルである。発売当時はモーリス・マイナーやフォード・アングリアなどの大衆車よりもワンランク上のものを求める、ミドルクラスの消費者をターゲットとしていた。
レーザーで削り出されたようなボディは、従来のトライアンフ・レナウンを縮小したもので、完璧なデザインとは言えなかった。しかし、隣人よりも良いクルマに乗りたいと願う人々が買い求め、3万4000台が販売された。
外観は非常に古典的なものだったが、メイフラワーの1247ccエンジンはアルミ製シリンダーヘッドを採用しており、走りは上々だった。また、燃費も比較的良好で、配給制が敷かれていた英国では重宝された。
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トヨペットSD型は、1949年10月25日にGHQによる自動車製造の制限が解除されるた直後、翌11月に登場したモデル。当時の日本で最大の乗用車ユーザーだったタクシー業界が望んだ、1947年4月に登場したSB型トラックのシャシーに乗用車のボディを架装したモデルだった。
以後、SG型トラックと共通のシャシ―のSF型、SK型/RK型トラックと共通のシャシ―のSH型/トヨペット・スーパーRH型を経て、1955年1月にトヨペット・クラウンRS型が登場する。