もくじ
前編
ー 同時代の英国車とは「まったく違う」
ー スタイリングは「新たなショック」
ー 手で動かせるワイパー
ー シトロエン 隣にジャガー/ローバー
ー 1964年型 DS19サファリ
後編
ー シトロエン乗りの儀式
ー 最良の選択はスラウ製のパラス
ー マシュマロのような乗り心地
ー DS21デカポタブル登場
ー ありふれた風景が、優美な世界に
ー 電気なし 水道なし 60年前の「未来」
シトロエン乗りの儀式
シトロエンをスタートさせるのは、けっして飽きることのない儀式だ。4.9mの長いボディが油圧ポンプの唸り音を伴奏にゆっくりと持ち上がる様子は、何度見ても印象的だ。独自の方法論を乗り手に焼き付けようとするクルマだから、それに慣れるには時間がかかる。このサファリのステアリングは、最初はフィーリングがないと思うほど軽いが、完璧なまでにダイレクトだ。
一方、大きなラバー製のペダルで操作するブレーキはとても敏感で、この大柄なワゴンを易々とストップさせる。
50~60年前のDSが他のクルマとどれほど違っていたか?
数マイルも走れば、だんだんわかってくる。それはサファリが当時の英国で唯一の大型FFエステートだったから、というだけではない。この国の裕福なモータリストにとっては当たり前だったもの──例えば節度の乏しいコラムシフトも、ランバウトさえもチャレンジングになってしまう鈍重なハンドリングも、堅い乗り心地も、どれもDSに乗りさえすれば解放されるのだ。
ハンバーやヴォクゾール、フォードの大型車に乗り馴れた人にとって、DSの安定感は半信半疑の感情を残すものだったに違いない。それは今日の路上でも同じだ。試乗コースは軍用の重量級トラックで路面が痛めつけられていたが、サファリはまさに滑空するがごときの乗り味。
最良の選択はスラウ製のパラス
コーナリング中にボディの長さを感じさせず、テールが勝手な動きをするような不安もない。4速のトランスミッションも扱いやすく、タイミングよくスロットル操作することとノンシンクロの1速に入れるのは停車中だけにすることを心得ておけばよい。
結局のところDSは、完全な実用車であるためにギミックを排したクルマなのだ。サファリには数種類のタイプがあったが、今回の取材車は荷室に2つの折り畳みシートを装備。最大8人まで乗れるので、グループで日帰りの狩猟に出掛けるのにピッタリだ。ルーフラックも備えるし、快適なインテリアはきわめて機能的と表現できる。ダッシュボードには英国的伝統主義の名残を示すためにウォルナットが採用されているが、そのダッシュボードが同時代の英国の平均的な6気筒ステーションワゴンとの違いを際立たせているのは皮肉なことだ。
スラウで組み立てられた最後のモデルのひとつがDS21パラスである。1965年に導入された2175ccエンジンに、より豪華な装備を組み合わせた上級仕様。取材車のパラスを見ると、シビエ製クォーツハロゲンの補助灯やアルミのCピラー・パネルがDS19との違いを強調している。控え目だが、メッセージは明快だ。ふんだんなクロームやホワイトウォールのタイヤを友人に自慢したいなら、フォードのゾディアック・エグゼクティブMk IIIでも選べばよいのだ。
クラシックカーの愛好家はそれぞれ、DSシリーズのどれが究極のモデルかについて持論をお持ちだろう。私の場合、25年以上も前からそれはスラウ製のパラスだった。
マシュマロのような乗り心地
ひとつには見た目の問題だ。追加されたドライビングランプは効果絶大だし、スミスのメーターはただただ素晴らしい。コノリーの本革シートと拡大されたエンジンの組み合わせが、このクルマを同級他車より傑出した存在にしている。そして最後に、運転すれば夢のような愉しさを欲しいままにできる。今回のシルバーのパラスは、まさに期待にたがわぬクルマだった。
まず何より、そのインテリアである。そこはまるで疲れたボスが本革張りのアームチェアに身を委ね、分厚いカーペットに足を投げ出すような安楽な空間だ。会議の後、運転をショファーに任せて居眠りしながら、企業買収やビル建設を夢見るのにうってつけの環境と言えるかもしれない。
一方、ずらりと並んだメーター(回転計もある)を見れば、自らエンジンに火を入れたくなるのだ。そのサウンドは平均的な4気筒より確かに洗練されている。油圧システムの儀式が終わったらスタートだ。セミオートマチックのシフトレバーは、ライトスイッチのように軽いタッチ。最高速度はそれほど速くないにしても、最小限の労力で長距離を走れそうな予感をもたらしてくれるクルマである。
マシュマロのようにソフトな乗り心地のクルマはゆったり走るものだと思っていたが、DSパラスはレスポンスも素晴らしく、映画『シャレード』のオードリー・ヘップバーンを彷彿とさせるエレガンスを伴いながらコーナーを駆け抜ける。
DS21デカポタブル登場
私は過去11年余りにわたって60年代中盤の英国車を何台も試乗してきたが、ハンバー・インペリアルやジャガーMk-X、ローバーP5といった並外れたクルマでさえ、このパラスのインパクトには敵わない。短すぎる試乗時間を通じて私は、雲の上を滑空するがごときこのクルマがスラウで生まれたとは信じ難いということを、ずっと考え続けた。デカポタブルの価値は金額では測れない
この記事の登場するDSはどれも印象的だが、なかでもデカポタブルは特別だ。シトロエンは1950年代後半からオープンカーを真剣に考えていた。だからこそDSをカロシェ(=カロッツェリアのフランス語)のアンリ・シャプロンに売ることを拒否したのだが、それは功を奏さなかった。シャプロンはディーラーで買い求めたDSをベースにカブリオレを製作し、1958年のパリサロンに出品。それが大きな反響を呼んだ結果、シトロエンは60年にシャプロンがDSの公式な派生車としてデカポタブルを少量生産すると発表した。
初期のデカポタブルはサルーンのプラットホームをベースにしていたが、64年からサファリのフロアを使うようになった。パリ北西部のルヴァロアにあるシャプロンの工場にシトロエンからシャシーが送られてきた後、フロアメンバーを補強。幌を格納できるように作り直したリア回りに10cm長いドアを組み合わせ、Bピラーを取り去る。このフルオープン派生車は、DSとIDの両方に設定された。
ありふれた風景が、優美な世界に
デカポタブルがスラウ工場で生産されることはなかった。今回の取材車はシャプロンが50台だけ作った希少な右ハンドル仕様の1台であり、DS21のエンジンを搭載。これもロラン・バルトの「空から落ちてきた」の表現に相応しく、見る人を一瞬で魅了する。
ディテールの造り込みは、デザインし直されたリアターンランプやパラス仕様の内装まで、望み得るベストに近い。
ソフトトップを閉じれば、安楽で落ち着いた雰囲気。オープン状態のスタイルは率直に言って傑作だ。撮影のためにバッキンガムシャー州の工場跡地に立ち寄ると、ありふれた風景が優美で魅力的な世界に見えてきたし、通りすがりの人々は畏敬に打たれた表情でこのドロップヘッドのDSを見つめた。周囲を変えてしまうような力を生まれながらに備えたクルマは、世の中にそう多くない。
しかしデカポタブルはムービースターがカンヌ映画祭に乗り付けるのには、たぶん向かない。後席に乗って観衆の声援に応えるのは誇らしいことだろうが、後席のレッグルームが狭すぎるのだ。歌手で俳優のチャーリー・ドレイクぐらい小柄でないと、快適に過ごすのは難しい。
電気なし 水道なし 60年前の「未来」
しかしそうした不満は、メルセデス300SLのガルウイングドアに「普通じゃない」と文句と言うようなものだ。シャプロン製のオープントップの価格はスタンダードなDSのほとんど2倍だったが、その美しさと偉大さを金額で測ることはできないだろう。
60年前のモーターショーでDSが巻き起こしたインパクトを正しく理解するためには、当時の英国が今とどう違っていたかを考える必要がある。1955年の英国はカフェバーやテディボーイ(20世紀初頭風の服装をした若者)が流行り、家族の話題は住宅ローンや初めて買うクルマについてだった。家には電気も水道もなかった時代である。ビクトリア様式の建築が並び、鉄道は蒸気機関車で、街路を照らすのはガス灯。近代主義建築家のエルノ・ゴールドフィンガーが建てた斬新なビルと同様に、シトロエンDSは未来を指し示す道標だった。
今回の4台はそれぞれ意味ある年に生産されたが、どれも時代にマッチしなかった。少し早すぎたか、もっと手厳しく言えば、人々が想定する未来像に対して先駆けすぎた。しかし60年前にシトロエンが、クルマがどうあり得るかを定義し直したのは確かだ。サルーンであろうとサファリであろうと、パラスもデカポタブルも、どのDSも旧来の規範に挑戦していた。素晴らしい何かを予感させるクルマを目の前にしたとき、常識や伝統に執着する意味などないのだ。
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