ダカール・ラリー初期の参戦者のひとりであり、二輪で2回、四輪で1回の計3勝を挙げたユベール・オリオールが、1月10日(日)に亡くなったことが分かった。68歳だった。
新型コロナウイルスに感染していたという情報もあるが、フランスの通信社によれば、オリオールは長く心臓病を患っており、その闘病の末亡くなったという。
【動画】ユベール・オリオールのインタビュー(2020年収録)&現役時の姿など
オリオールは、パリ-ダカール間で行なわれた1979年の第1回大会からダカール・ラリーに参戦。1980年大会で初のステージ優勝を記録すると、1981年にはBMWのバイクを駆り、自身初の二輪総合優勝を果たした。その後1983年に2勝目、1984年には二輪総合2位となった。
1985年からイタリアのカジバに移籍。1987年には勝利に近づいたものの、最後から2番目のステージでクラッシュし、両足を骨折してしまう。
翌1988年からは四輪に転向。当初はシングルシーターのバギーのドライブに苦戦したが、1991年にオレカに加入してラダをドライブすると、ふたつの2ステージを手にした。
1992年には三菱パジェロをドライブ。同年のルートはパリから南アフリカのケープタウンまでの合計12,427kmという長大なモノだったが、これを最速で駆け抜け、四輪でのダカール・ラリー初優勝、二輪時代と合わせて3勝目を挙げた。この年、2位となったチームメイトのアーウィン・ウェバーとの差は5分足らずだった。
なおダカール・ラリーの二輪部門と四輪部門の双方で優勝したのは、このオリオールが初めてだった。
1993年にはシトロエンに移籍して3位フィニッシュ。プロとして最後の挑戦となった1994年はパリ→ダカール→パリというルートだったが、ピエール・ラルティーグに次ぐ2位となり、シトロエンに1-2フィニッシュをもたらした。
ダカール・ラリーが現在の主催者であるアモリ・スポル・オルガニザシオン(ASO)に移った後、オリオールは1995~2003年にかけて同ラリーのディレクターを務めた。ただこの職を退いた後、2006年にはいすゞのトラックを駆り、一度限りではあるもののラリー復帰を果たした。
その後、ダカール・ラリーが治安の悪化により南米に開催地を移した際にも、アフリカでのラリー存続のためにアフリカエコレースが創設される際、ジャン=ルイ・シュレッサーらを支える形で貢献。2013~2016年には中国グランドラリーのディレクターを務めた。
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