若き日のマルキオンネ
セルジオ・マルキオンネは1952年6月17日、イタリアのアドリア海沿岸にあるチエティで生まれた。彼の父はカラビニエリ(国家憲兵)に属していた。
14歳の時、マルキオンネは家族とともにより良い生活を求め、親戚の住むカナダに移住した。ニューヨークタイムズによれば、彼の父はイタリアの階級社会にうんざりし、より実力が評価される国への移住を望んだとのことだ。
大学生活
マルキオンネはトロント大学で哲学を専攻した。その後彼はデトロイトにあるウィンザー大学へと移籍し、1979年に商学の分野で学士号を取得した。
彼は1983年にヨーク大学で法学の学位を、1985年には再びウィンザー大学でMBAを取得した。
1980年代のマルキオンネのキャリア
複数の学位を持ち、金融や法律にも精通していたことから、マルキオンネはデロイト・トーシュで税理士と会計士としての職を得た。彼はその後1985年にローソン・マードン・グループという梱包会社へと移籍し、グループコントローラーから経営企画マネージャーへと上り詰めた。1989年には同社を退職し、コングロマリットのグレネックス・インダストリーズにの上級副社長に就任した。
彼のキャリアは素晴らしいスタートを切ったものの、のちに自動車業界の巨人になるとは誰も想像していなかっただろう。当時、フィアットは彼を必要としていなかった。マルキオンネがヨーク大学から法学の学位を得た1983年、イタリアでの販売台数トップ5はすべてフィアットや子会社のアウトビアンキ製であった。しかし2003年に彼がフィアットの役員に就任した時には、2位、4位、5位の座をシロトエン、フォード、ルノーに明け渡していた。
(画像:フィアット・ウノ)
1990年代のマルキオンネのキャリア
マルキオンネは自動車業界では異例の長さとなる14年間にわたってフィアットCEOの座に就いていた。しかし、そのキャリアを振り返ってみると、彼は良い機会を与えられるたびに転職を繰り返していたことがわかる。例えば、彼は1990年にグレネックス・インダストリーズを辞め、会計事務所のアックランズへと移籍した。その後1992年にはローソン・マードンへと復帰し、そのCFOの座へと登った。
彼が45歳となった1997年には、1994年にローソングループが買収したスイスのALグループのCEOとなった。その時、アルプスの向こう側のフィアットでは欧州でのシェア減少に苦しんでいた。パンダは過去の遺物に、プントは販売が息切れし、ムルティプラも日の目を浴びずにいた。
2000年代のマルキオンネのキャリア
ALグループが2000年に化学物質に特化したロンザ・グループを独立させると、マルキオンネはそのCEOとなった。そして2002年、彼は会長の座に就任した。同じ年、スイスの物流と検査を行う会社のSGSがマルキオンネをCEOとして招いたが、彼は約2年でその座を退いた。
フィアットに移籍した後、マルキオンネは合併相手を模索するとともに、条件が揃えばそのビジネスの一部または全部を売却する用意もしていた。彼はフィアットの自動車製造部門すら売却を検討していたが、購入者は現れなかった。彼の会社再建への意欲はスイス時代に培われたものが大きいようだ。
フィアットは2000年代初期に最悪の時期を迎えていた。多くのアナリストは同社の倒産を予想し、すでに脆弱であったイタリア経済の大混乱を危惧していた。フィアットの欧州市場におけるシェアは2000年の9.4%から2004年には5.8%まで落ち込んだ。2003年に発売された2代目パンダが最後の望みであった。
マルキオンネ、フィアット入社(2003年)
セルジオ・マルキオンネは2003年にフィアットの取締役として入社した。彼は自動車産業において全くの未経験であったが、金融における経験やその勤勉さ、投資家への受けの良さかが買われた形であった。
これこそが倒産寸前のフィアットが求める能力だった。イタリアの投資家、ロベルト・コラニーノが投資と自らのCEOへの就任を提案したが、取締役会が拒否した。同時に浮上したうわさによれば、同社は自動車製造部門を売却し、トラクターや保険などのより収益性の高い分野に注力する方針であったようだ。
フィアットのCEOに就任(2004年)
マルキオンネはそれほど早くCEOに就任する予定ではなかった。しかし、フィアット創業者であり会長のウンベルト・アニェッリが69歳で亡くなったのをきっかけとする一連の出来事により、彼の昇進が決まったのだ。これは彼の52歳の誕生日のわずか数週間前のことであった。
取締役会はフェラーリのルカ・ディ・モンテゼーモロを指名した。しかし、この決定は会長就任を目論んでいたジュゼッペ・モルチオCEOを激怒させ、彼の辞任につながった。結果的に、取締役会はマルキオンネをCEOの座につかせたのだ。
彼はCEOに就任すると、「わたしは鈍ったものを修復するのが好きなのです。フィアットは改善を必要としています」と語った。彼の予測は的確であった。2004年当時、2世代目パンダは登場から1年であったが、他のセイチェントやプントなどは1990年代後半から大きな変更が加えられていなかった。フィアットは欧州の小型車市場において完全にシェアを失う危機に直面していたのだ。
GMのとの提携解消(2004年)
2000年、GMはフィアット株の20%を24億ドル(2660億円)で取得したが、同社がフィアット再建への関与を中断する決定をすると、その割合を10%まで減らした。このアライアンス契約には、2004年から2009年の間、フィアットがGMに対して自動車製造部門を売却することができるという条項が付いていた。しかし、それが行使される可能性は低いと見られていた。アニェッリ家がそれを手放す姿を誰も想像できなかったのだ。
しかし、利益への執着が強かったマルキオンネは、GMに対しその約束を守らなければ訴訟を起こす構えを見せた。デトロイトの経営陣は自らも経済的問題を抱えていた上、フィアットの状況も日に日に悪化していた。彼らはフィアットのプットオプションを無効化する代わりに、増資および一部資産の売却を行うよう要求した。
2005年、数カ月にわたる協議の末、GMは20億ドル(2216億円)の支払いに応じた。そして、5年間にわたるGMとフィアットの提携関係は解消された。
マルキオンネは後に、「20億ドルあれば、たくさんの小型車を生産できる」と語った。
フィアット自動車を手中に(2005年)
マルキオンネはフィアット自動車のヘルベルト・デメルCEOを解任し、その座に就任した。彼はその理由として、2004年時点のフィアットグループ内で赤字を計上する唯一の部門を早期に再建するためと語った。
彼は自動車業界での経験がない上、フィアットがあまりにも多くの課題を抱えていたことから多くのアナリストたちが懐疑的な見方をしていた。
野心的な5カ年計画(2005年)
2005年8月、フィアットは5カ年計画を発表した。メディア、アナリスト、投資家たちを前に、マルキオンネは2005年から2008年までの間に20の新型車を投入すると明言したのだ。そして118億ドル(1兆3077億円)の投資をすることも約束した。
この積極的な計画には、ランチアの新型車や、新生500の発表も含まれていた。フィアットは500をポーランドで生産するとしていたが、マルキオンネはイタリアの工場を閉鎖しない約束をすることで、雇用の確保に務めた。
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