1990年代後半から2000年代前半までプジョー・スポールの監督を務め、プジョーをWRC世界ラリー選手権3連覇にも導いた名将、コラード・プロベラが亡くなった。82歳だった。
イタリア出身のプロベラはクライスラーでキャリアをスタートさせた。イギリスの自動車メーカーで現ステランティス傘下のタルボを経てプジョーに移管するまで組織に残ったプロベラは、後に広報部門から経営部門へと移り、最終的にはプジョーの取締役に就任した。
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彼は1998年にプジョー・スポールのディレクターに就任すると、ブランドの主戦場をF1からWRCに移行させる決断を下した。
プロベラが率いるプジョー・スポールは『プジョー206 WRC』とともに成功を収め、2000年にはWRC復帰2年目にしてマニュファクチャラーズタイトルを獲得。その後もプジョーは2001年、2002年とWRCを制し、マニュファクチャラーズタイトルの“ハットトリック”を達成した。
当時プジョー・スポールのドライバーだったマーカス・グロンホルムは206 WRCで2度のドライバーズタイトルを獲得している。55歳となったグロンホルムはかつてのボス、プロベラについて次のように振り返った。
「彼と私はとてもよく似ていて、私はマシンの中で、彼は机の上でいつも懸命にプッシュしていた。私たちはよく一緒に仕事をしたよ」
「彼はいつもチームのみんなを気遣っていた。彼は心の中にライオンが居るとよく言っていたが、それは本当だった。プジョーは彼のすべてだったんだ」
プジョー・スポールは声明のなかで次のようにコメントしている。
「コラード・プロベラが亡くなったことを知り、大変残念に思います」
「プジョー・スポールのトップとして活躍した数年間は、彼のカリスマ性とエネルギーに象徴されるものでした。彼のご家族と彼を知るすべての人々に心から哀悼の意を表します」
プロベラとプジョーの蜜月の日々は2005年2月まで続いた。
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