30年前の1994年5月1日、F1サンマリノGPの事故でこの世を去ったアイルトン・セナ。34年と短くも煌めきを放ったそのキャリアを、motorsport.comの写真アーカイブで振り返る。
■アラン・プロストが回顧する、アイルトン・セナとの”関係”が変わった瞬間「私に対して、完全に別人だった」
■1981年~1983年:F1デビュー前
1960年にブラジルで生まれたセナはカートで活躍した後、1981年に4輪レースの世界へ。最初はフォーミュラ・フォードからのスタートだった。連戦連勝を飾り、1983年にはF3にステップアップする。
1983年のイギリスF3でも、セナは開幕から連勝を続けた。最終的にライバルのマーティン・ブランドルを抑えチャンピオンに。同年のマカオGP(写真)でも優勝を飾った。
■1983年:F1テスト
その活躍によりF1チームからも注目を集めたセナ。実は1983年の段階で複数のF1チームからテストに参加していた。そのひとつが、後に所属することになるマクラーレン。セナは当時の最新マシン、MP4/1Cを走らせた。
生涯最後の所属チームとなるウイリアムズからもテストに参加していたセナ。カーナンバー1のFW08Cをドニントンパークで走らせた。
闘将、フランク・ウイリアムズとの関係もこの頃からだった。写真は走行を終え、熱心にディスカッションするセナ。
■1984年:トールマン時代
1984年のF1デビューに向けてはいくつかの選択肢があった中で、最終的に新興チームのトールマンからデビューすることになったセナ。戦闘力が決して高いとは言えないマシンで入賞を繰り返した。
大雨のモナコGPでは、13番手スタートからトップを走るアラン・プロストを猛然と追い上げて2位。レースが雨で途中終了にならなければトールマンでの優勝もあり得たレースだっただけに、今なお語り草となっている。
■1985年~1987年:ロータス時代
1985年はロータスに移籍。同年にはポルトガルGPで初優勝も達成したが、この時も雨で難しいコンディションのレースであった。
ロータスには3シーズン所属し、タイトルには手が届かなかったものの、ポールポジション16回と優勝6回を記録。トップドライバーの仲間入りを果たした。
1987年には、ロータスがホンダエンジンを搭載。セナは初のフルタイム日本人ドライバー、中嶋悟とチームメイトになった。
■1988年:マクラーレンで初王座
セナは1988年よりマクラーレンに移籍することが決まる。エンジンはホンダ、チームメイトはワールドチャンピオンのアラン・プロストだ。翌年の去就発表の定番であった秋のモンツァでは、監督のロン・デニスも出席して会見が開かれた。
セナとプロストはマクラーレン・ホンダのパッケージで圧倒的な強さを見せることになる。1988年は16戦15勝。この時記録した勝率は、2023年にレッドブルが塗り替えるまで不滅の記録とされた。
セナが初のチャンピオンを決めたのは日本だった。1988年日本GP、セナはスタートでエンジンストールして後方に沈むが、そこから鬼神の走りで追い上げて優勝。タイトルを手中に収めた。
■1989年~1990年:プロストとの確執
当初は友好的だったプロストとの関係も、その争いが激化する中で次第に緊張が高まっていた。その極め付けとなったのが1989年の日本GPだった。首位を争うセナとプロストはシケインで接触。セナはレースに復帰してトップチェッカーを受けたものの、シケイン不通過で失格、プロストに王座が転がり込んだ。この一件はセナの競技ライセンス停止の議論まで発展し、大騒動となった。
その1年後、両者は鈴鹿で再びぶつかった。プロストがフェラーリに移籍した1990年もセナ、プロストによるチャンピオン争いとなったが、日本GPのスタート直後に両者は接触し、今度はセナのチャンピオンが確定した。セナは後に、この接触が故意のものであったと認めている。
■1991年:母国ブラジルで初勝利
今なお語り草となっている、1991年ブラジルGP。レース終盤はトラブルによりほとんどのギヤが使えなくなりながらも、トップの座を守り抜いて優勝。これが母国ブラジルでの初めての勝利となった。無線で絶叫し号泣するセナがマシンから降りられなくなってしまうシーンはあまりにも有名だ。
1991年には3度目の王座を手にしたセナだったが、シーズン終盤のウイリアムズの台頭により、マクラーレン・ホンダの独走時代は終わりを迎えていた。そして翌1992年にはホンダがF1撤退。ウイリアムズは、マクラーレンに代わってF1を席巻し始めた。なおセナは、1991年の時点からウイリアムズ移籍を希望していたが、ホンダの留意によって翻意したとも言われる。
■1992年~1993年:伝説のモナコ、ドニントン
セナ伝説のレースとなっているのが、ウイリアムズ・ルノーの連勝を止めた1992年のモナコGP。緊急ピットインで2番手に後退したナイジェル・マンセルの猛攻を抑えるセナのファイトは多くのファンを熱狂させた。
契約問題で揺れに揺れた挙句、“マクラーレン・フォード”に残留することになったセナ。ドニントンパークでの1993年ヨーロッパGPでは、雨の中オープニングラップでライバルをごぼう抜きしてトップに立ち優勝。このレースをセナのベストレースに推す声も多い。
■1994年:最後の1年
1994年、ついにウイリアムズ入りを果たしたセナ。しかしハイテク禁止の煽りを受けたウイリアムズのマシンは神経質なものだった。セナは開幕戦ブラジルGP、第2戦パシフィックGPとポールポジションを獲得しながらも、開幕戦はスピン、第2戦は他車からの追突によりリタイアに終わった。
第3戦サンマリノGPでは、ルーベンス・バリチェロの事故、そしてローランド・ラッツェンバーガーの死亡事故と、レースウィーク中に重大事故が立て続けに発生。セナは同僚の死を目の当たりにして心を痛め、マシンに乗ることをためらっていたと言われる。そんな中で行なわれた1994年5月1日の決勝レース。多くの伝説を残したセナもまた、天へと召されていった。
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