AMGと契約して2、3年が経ったころ、東京のとある会社が「AMGの商標登録をしたから使うな」、と突然言ってきた。商標登録することなど、富田の意識になかったのだ。そこで富田はAMGを諦め、違うブランドを探し始める。そうして見つけたのがBMWベースのチューニングカーを作っていたハルトゲだった。
こんどはぬかりがなかった。商標登録はもちろん、株式会社ハルトゲジャパンを設立し、輸入代理店として本格的な活動体制を整えたのだ。この頃、後にオリジナルカー開発において重要な役割を果たすエンジニアの解良喜久雄がトミタオートに合流している。国産F1マシン「KE007」のメカニックを担当した人物だった。
伝統工芸で世界で1台のクルマを作る、壮大かつ奇抜なプロジェクト
AMGとのビジネスはまだ実験的なものだった。パーツのみを輸入してユーザー向けに組み付けることが主だったのだ。ハルトゲではそれをもう一歩、発展させたいと富田は考えた。アルピーヌA108を見て「これなら造れる!」と思った頃の怖いもの知らずの気概が、当時の富田にはまだあった。
AMGに続きハルトゲでもブランディングにこだわったのは、富田がブランドこそが最大の資産だと感じていたから。富田は今もこの学びを講演などでの大きな柱にしているという。ハルトゲジャパンとマハラジャ誰も知らない、もちろん富田さえも知らなかったハルトゲブランド。日本中のクルマ好きに認知してもらうべく富田が取った戦略もまた、当時の輸入車販売業界では異例のことだった。
1984年のこと、社会現象となっていたディスコ“マハラジャ”でハルトゲブランドの発表会を行ったのだ。ハルトゲというブランドを披露しただけじゃない。BMW635CSiをベースとしたグループAマシンで日本のツーリングカー選手権に参戦することも発表した。その日、マハラジャは“ハルトゲの日”となり、多数の有名人が駆けつけ、またテレビや新聞など多くのメディアに取り上げられて、ハルトゲは瞬時にして日本中のクルマ好きに知れ渡ったのだった。
その後もハルトゲはマハラジャに展示された。マハラジャが全国展開すると、ハルトゲも帯同し、知名度は益々上がっていく。BMWベースのチューニングカーであるという認知も広がった。マハラジャとハルトゲのコラボレーションステッカーが人気を呼ぶなど、ハルトゲの“眠らない”マハラジャ・ショールームもまたひとつの社会現象となっていた。
全日本ツーリングカー選手権を制すクルマ好きの間でハルトゲという名前がいっきに浸透した理由は、なにもマハラジャで飾っていたからだけではなかった。そのパフォーマンスもまた、クルマ好きを魅了したのだ。
1985年に始まった全日本ツーリングカー選手権グループAにおいて、ハルトゲBMW635CSiが見事に年間チャンピオンに輝いたのだった。けれどもこの実績が後に自分を苦しめることになろうとは、夢にも思わなかった。
マハラジャのスタッフが着用していた赤いコスチューム。イベントの際も大々的にコラボしてマハラジャ×ハルトゲの世界観を打ち出した。マハラジャとコラボレーションすることで、チューニングカーの世界をそれまでになくオシャレで華やかなものとして演出してみせた富田だったが、その一方で、パフォーマンスにはこだわり続けていた。
ディスコとサーキット。硬軟織り交ぜた富田の戦略は、後のラクシャリーとパフォーマンス、ソフトとハードを融合したマーケティングの先鞭をつけるものだったのだ。
やっぱり自分で造りたいしょせん、人が造ったブランド。AMGとハルトゲを日本に紹介した富田だったが、常にそんな思いがくすぶっていた。もちろん、いつかは日本車をベースにやってみたいという思いもあったのだが、輸入車販売が本業という立ち位置は変わっておらず、FAIA(外国自動車輸入協同組合、主に並行輸入業者の集まり)の企画委員長を務めるなど、多忙を極めていた。
ある日、FAIAの会議で東京へ出張していた富田に京都のオフィスから連絡が入った。東京から日産自動車の人間が数名突然やってきて「社長に会いたい」と言っているらしい。帰りは明日だと伝えたが、それなら「明日まで待っている」、という。
サイドにあしらわれたストライプは、のちのトミーカイラブランドにも通じるデザイン。国産チューニングカーへとファンを自然と流入させるためにこのような戦略をとった。いったい大メーカーの日産が自分に何の用があるのだろう?全く心当たりもないまま、富田は用事を切り上げて京都へトンボ帰りすることに。急いで戻ってみれば、オフィスに伝言があった。円山公園に近い有名料亭で待っているという。
料亭の部屋に入ってみれば、そこには10名近くの関係者が待っていた。その中に富田が最も世話になった人物の顔を見つけて、富田はただ事ではないと知る。
次回予告
富田の元へと突如現れた日産自動車のシークレット部隊。富田の親友であり、兄貴分であり、師匠でもあった人間が日産のトップと話をつけて始まった物語だった。夢でもあった日本車ベースのチューニングカービジネスがひょんなところから始まろうとしていた。日産という大企業の懐に飛び込んだ富田。すべてが順調に進んでいたかに見えたが、そこに立ちふさがったのは“日本の大企業”そのものだった。
文・西川 淳 編集・iconic
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