ポーランが情熱を向けた自動車のボディ
初代オーナーにちなんで、エンビリコス・ベントレーと呼ばれる、1938年式のクーペ。アンドレ・マリス・エンビリコス氏の資金力で、英仏の合作として生み出された印象的なモデルだが、筆者は「ポーラン・ベントレー」と称する方が正しいと思う。
【画像】「フランス的」と反発された流線型 エンビリコス・ベントレー 同年代のハイエンド・モデル 全115枚
確かに、特別なボディの対価を支払ったのはエンビリコスだ。彼は金融業と海運業で成功した、富豪のギリシア人だった。だが、空気力学へいち早く注目していたフランス人技術者、ジョルジュ・ポーラン氏の名を冠した方が、特長を端的に表すだろう。
第二次大戦中、ポーランはナチス政権に対するレジスタンス勢力へ参加。英国が提案した逃亡計画を受け入れず、ドイツの秘密警察、ゲシュタポで潜伏活動を展開した。しかし、目的が知られ逮捕。フランス・パリの南部で銃殺されてしまう。40歳だった。
歯科技工士を本業としたポーランだったが、幼い頃から描画を好んだ。機械的なデザインに強い関心を寄せ、リトラクタブル・ハードトップの構造を考え、特許を取得している。水上飛行機も設計した。
とりわけ情熱を向けたのが、自動車のボディ。流線型の美しい姿を描き出し、ベントレーへ施すことになった。
フランスのブガッティやドラージュ、ドイツのアドラー、イタリアのアルファ・ロメオなどは、1930年代に入ると滑らかなボディの量産車を提供していた。だが、第二次大戦前の英国では、空気抵抗の少ない流線型に対する理解や技術開発が遅れていた。
フランス的な技術として反発された流線型
保守的なブランドに含まれたのが、ベントレー。「サイレント・スポーツカー」と呼ばれる高性能モデルを提供していたが、経営者は伝統主義を重んじた。切り立った大きなラジエーターこそ、ブランドの象徴だと考えていた。
そんなベントレーと、ロールス・ロイスをフランスに輸入していたのが、ウォルター・スリーター氏。時代性に欠けるスタイリングへ、不満を抱いていた。
デザイナーのジャン・ブガッティ氏だけでなく、コーチビルダーのフィゴーニ・エ・ファラッシ社、ルトゥルヌール・エ・マルシャン社などがフランスでは台頭。華やかで洗練されたボディが、高速道路での存在感を強めていった。
エンビリコス・ベントレー開発への転機となったのが、1936年4月。ベントレーの技術者が、グレートブリテン島南部のブルックランズ・サーキットを訪れた時のことだった。
高速で疾走する流線型のサルーン、奇抜なデュボネ・ドルフィンを2人は目撃。空気力学に対する関心を強め、研究予算を準備するよう上層部へ打診する。しかし、フランス的な技術だとして反発されたようだ。
その後、このアイデアはスリーターが引き継ぐ。既に高級車をコレクションしていたエンビリコスは、流線型ボディを開発したいという彼の考えに賛同。デザイナーには、ポーランが適任だという考えも一致した。
この時、ポーランはドラージュD8-120という流線型のグランドツアラーを手掛けていた。1937年のパリ・モーターショーに向けて、コーチビルダーのポフトゥー社での製作は大詰めにあった。
シャシーは4 1/4リッター アクリルで軽量化
新たなベントレーの計画を引き受けたポーランは、歯医者の仕事を終えた夜間に、スタイリングを検討。自宅の机で、流線型のドローイングが描かれた。
1937年11月には、風洞実験用の縮尺モデルが完成。1938年1月に仕上がった原寸大の木製モデルは、エンビリコスだけでなくベントレーの上層部にも感銘を与えた。
必要な保証金がベントレーへ支払われ、メーターはkm/hで指定され、実作がスタート。1938年3月に、4 1/4リッターのシャシーはポフトゥー社へ搬入。ボディは4か月後に完成し、フランスの路上でテスト走行が始まった。
エンビリコスが最終的に支払った金額は、当時で5万9210フラン。特注のコーチビルド・ボディ、2台分の金額だったという。
かくしてエンビリコス・ベントレーは、高速なロードカーとして開発された。キャビンのフロアには毛足の長いカーペットが敷かれ、豪奢なレザー・シートが据えられた。
車重は1565kg。軽いアクリル製ウインドウなどを採用し、通常のベントレー4 1/4リッターより159kgも軽量に仕上がっていた。
ベントレーの技術者、EW.ハイブス氏とWA.ロバートソン氏は、4.25Lの直列6気筒エンジンを改良。圧縮比を8:1へ高め、大型のSUキャブレターを載せ、最高出力を126psから142psへ引き上げた。
ショックアブソーバーとブレーキもアップグレード。トランスミッションには、ギア比が2.87:1のオーバードライブ・トップギアが組まれた。
1949年のル・マン24時間レースへ参戦
完成したエンビリコス・ベントレーは最高速記録へ挑むことになり、フランスのオートドロム・ドゥ・リナ・モンレリへ。ドライバーとしての評価も高かったスリーターがステアリングホイールを握り、非公式だが、172.2km/hの記録を残している。
この能力を知らしめるべく、さらに彼はドイツへ向かい、アウトバーンを全開走行。メルセデス・ベンツが樹立した、平均128.7km/hの記録更新へ挑むものの、天候が悪化し中断された。だが、180km/hで運転するスリーターの様子は写真に残っている。
その後、エンビリコス・ベントレーは英国へ運ばれ、ジョージ・エイストン氏のドライブでブルックランズ・サーキットを走行。路面状態の優れないオーバルコースを周回し、平均183.4km/hを記録している。
しかしエンビリコスは、流線型のベントレーを1年足らずで売却してしまう。速度記録などに駆り出された期間が長かった一方で、オーナー本人は殆ど運転できず、嫌気が差したようだ。
1939年7月22日に購入したのが、レーシングチームのオーナーでドライバーの、HSF.ヘイ氏。直後に第二次世界大戦が勃発し、倉庫へ隠されるが、ブラックアウトされた姿はしばしば英国内で目撃されている。
1949年にル・マン24時間レースが復活すると、ヘイはエンビリコス・ベントレーで参戦。ジャーナリストのトミー・ウィズダム氏をコ・ドライバーに迎え、サルト・サーキットでの長丁場へ挑んだ。
この続きは、エンビリコス・ベントレー(2)にて。
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みんなのコメント
・・・すみません、意味わかりません。
エンジンは4250ccなら理解できるのですが・・・