シーズン優勝をかけた1960年のル・マン
text:James Mitchell(ジェームス・ミッチェル)
photo:Luc Lacey(リュク・レーシー)
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)
1960年5月、シチリア島で開かれたタルガ・フロリオ。スタート後、1台のフェラーリ250テスタ・ロッサ(TR)がクラッシュし、シャシー番号0774の250テスタ・ロッサはチームをリードする状況となった。
ドライバーはクリフ・アリソンとリッチー・ギンサー。しかし、アリソンは一度3位にまで順位を上げるものの、ギンザーへ交代後にコースアウト。0774はレースをリタイアした。
1960年シーズンも常に焦点はル・マンに当てられていたが、その年は世界スポーツカー・チャンピオンシップの最終戦でもあり、一層気は抜けなかった。シーズンでポルシェに先行されていたフェラーリは、レースに勝つ必要があった。
1960年のル・マンには4台の250TRがエントリー。NARTのチームもバックアップで参戦した。ほかにも7台のプライベート・フェラーリが3.0LのGTクラスに参戦。参加車両55台のうち、12台が赤い跳ね馬という状況だった。
プライベート参加となったアストン マーティンDBR1と、新しいジャガーE2Aという強敵も加わっていた。シャシー番号0774は、ゼッケン11番を付け、オリビエ・ジャンドビアンとポール・フレールがドライブした。
ジム・クラークが運転するDBR1が最高のスタートを切るが、マセラティが追いつき、追うフェラーリとの差を広げた。最初の1時間で2位から6位を占める状態を作ったフェラーリ。2番手を走っていたマセラティはピット・インし、順位を大きく下げていた。
フェラーリの希望を託された0774
しかしフェラーリも、燃料系の不調で2台が脱落。フェラーリの希望はシャシー番号0774と、NARTから参戦していたテスタ・ロッサに託された。
フェラーリはピットインの合間に、雨からドライバーを守るレインドレンチ・ガラスを装備。大雨が降り出すタイミングも、味方につけた。
ジャンドビアンとフレールは0774をコース上に留め、日が沈んでからもレースをリード。雨が止むとレースは通常のペースを取り戻した。
翌日の午前中は快晴で、0774の250TRは順調にレースを運んだ。レーススタートして2時間後からゴールまで、見事に1位を守ったフェラーリ。遂に1960年のル・マンを制し、世界スポーツカー・チャンピオンシップの優勝を掴み取った。
シャシー番号0774には、もう1つレースが控えていた。フェラーリでオーバーホールされた250TRは、エレノア・フォン・ノイマンへと売却。フィル・ヒルのドライブで、1960年10月のアメリカ・リバーサイドでのレースに参加している。
そこには、いつものメンバーが待っていた。ロータス19モンテ・カルロに座るスターリング・モスに、エキュリー・エコッセのクーパー・モナコT59クライマックスに座るサルヴァドーリ。
ポルシェ718 RSKをドライブするのはヨアキム・ボニエで、ジャガーE2Aのコクピットにはジャック・ブラバムが着いた。優勝したのはマセラティ・ティーポ61をドライブしたビリー・クラウゼ。ヒルが走らせた250TRは7位と振るわなかった。
買い物の足となったル・マン・レーサー
1961年以降のシャシー番号0774、フェラーリ250テスタ・ロッサは静かな余生を過ごしてきた。いかに独創的なクルマだったのか、誇示するかのように。
当時のオーナー、フォン・ノイマンはしばらくして、250TRをテキサス州のローズバッド・レーシングチームへ売り渡した。エンジンは降ろされ、1963年にクラッシュしたロータス19のシャシーへと組まれた。
その後チームは解散し、フェラーリ製のV型12気筒エンジンは地元の大学へ寄贈。0774のシャシーはアイルランドに渡り、ベントレー3リッターと共に、英国のフェラーリ・コレクター、アンソニー・バンフォードが買い取った。
彼は250LMのエンジンを0774のシャシーに載せ、走れる状態にすると、コリン・クラブがオーナーとなった。クラブは4年間に渡ってレースに参加。1973年のル・マンのサポート・イベントにも参加している。
オーナーのコリン・クラブは当時、この250テスタ・ロッサを妻が買い物に使っていたことを、自慢気に話したという。スーパーマーケットの駐車場に、ル・マンで優勝したフェラーリが停まっていたのだ。
1977年になると、所有者はポール・パパラルドへと交代。彼はシャシー番号0774に、入手した本来の12気筒エンジンを載せ直した。そして1960年代のマシンとして完全なレストアを仕上げるべく、マラネロへクルマを届けた。
神々しい存在感を放つテスタ・ロッサ
250テスタ・ロッサが仕上がると、パパラルドは2004年まで、ヒストリックカーのレースやコンクール・イベントに定期的に参加した。そして現オーナーが、そのあとを継いでいる。
シャシー番号0774のフェラーリ250テスタ・ロッサは、2019年のグッドウッド・リバイバルにも姿を表している。積極的に世界中のイベントへ、かつてのル・マン・レーサーを出展している。
今回の取材は、温かい快晴に恵まれた。英国バイチェスター・ヘリテイジが所有する小さなテストコースをお借りした。時折、滑走路を横切るグライダーが見える。
斜め上方に開く小さなドアを開いて、青い布張りのシートへ腰を下ろす。テスタ・ロッサの車内へ座ると、包まれ感が強い。メーターは大きく、クリア。潜水艦の中から、違った世界を見渡しているようだ。
ドライビングポジションは快適。ペダルとステアリングホイール、シフトノブは、あって欲しい位置に、正しくレイアウトされている。
スターターボダンを押す。セルモーターは少し不安を感じるほど長く回り、12気筒が一斉に爆発を始めた。何というサウンドだろうか。神々しい存在感を放つテスタ・ロッサが、気高さを自負するかのようだ。
250テスタ・ロッサは、すでにウォームアップが終わっている。1速へ入れ、短いテクニカルコースへと赤いボディを進める。エンジンの吸気弁を大きく開けられるのは、1つだけある短いストレート。
フェラーリによるレース・プログラムの中心
トランスミッションにも驚かされた。軽快で扱いやすい、ロータスのものより少し重い。アストン マーティンのフィーリングにもにているが、充分にフルードの温度が上がると、重さは変わらないものの精度が増す。
9月のグッドウッドでオーナーにお会いした時、このテスタ・ロッサは見かけによらず運転が簡単だと聞いていた。当時のレーサーの超人的な持久力にも敬服するが、確かにテスタ・ロッサはドライバーに優しい。
とてもドライバー・フレンドリーで、速度が増しても気難しさが顔を出すこともない。クルマの状況のすべてを、シャシーを通じて教えてくれる。ドラマもなく落ち着いている。シンプルに運転すれば良い。
短いストレートでは、12気筒エンジンから賛美歌のような歌声が耳に届く。神につかえる聖歌隊が、精一杯合唱しているようだ。息を呑まずにはいられない。
1960年にル・マンを制したシャシー番号0774のフェラーリ250TR。エンツォ・フェラーリのレース・プログラムの中心にあったマシンは、この0774だといえる。
1950年代半ばの成功から、1960年代前半までの時間をかけて戦闘力を高めていった。小さな改良を繰り返し、優勝を掴めるマシンへと進化していったのだ。
フェラーリ250テスタ・ロッサこそ、モータースポーツ史の中で最も偉大な時代に誕生した、最も偉大なレーシングマシンの1台。卓越したワークス・レーシングチームが生み出した、伝説といって間違いないだろう。
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