■モータースポーツにおけるアストンマーティンの歴史
2021年に60年を超える沈黙を破って、アストンマーティンがF1選手権に復帰することが決定している。マシンのカラーリングは、伝統のブリティッシュグリーンがメインカラーになるだろうというのが大方の予想だ。
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現在、アストンマーティンといえば、映画『007シリーズ』のイメージを持つ人が多いだろうが、実はレースの世界でも数々の素晴らしい戦績を残したメーカーでもある。そこで、現代にまで続くアストンマーティンの華々しいレースの歴史を紐解いてみよう。
●1920年代のアストンマーティン
アストンマーティンの共同創設者であるライオネル・マーティンは、誕生したばかりのこのスポーツカー・メーカーの指揮をとっていた初期の頃から、パートナーのロバート・バンフォードとともに、グランプリレースに参戦して名声を得ることを夢見ていた。
まずアストンマーティンは英国のヒルクライムレースで頭角を現し、ライオネル自身もレーサーとして自ら製作したマシンのステアリングを握っていた。とくにグランプリレースで卓越したパフォーマンスを披露し、ヨーロッパに自身の名とアストンマーティンの名を轟かせることになる。
「狂騒の20年代」が始まる頃、マーティンは、才能溢れる若きレーシングドライバー、ルイス・ズボロウスキー伯爵を紹介され、レースにおけるアストンマーティンの夢が現実に向かって大きく動き出すことになる。
裕福なポーランド貴族であるズボロウスキー伯爵と米国人女性の相続人は、飽くなきスピードへの情熱を持っていたのだ。億万長者であったズボロウスキーには、自由に使える資金を豊富に持っていただけでなく、ドライバーとして、アストンマーティンの初期型サイドバルブ・オープンホイール・レーサーを熟知していいたため、同時に2台のレーシングマシンの製作をアストンマーティンに依頼し、レースの世界へと乗り出したのだ。
その後、ライオネル・マーティン率いるチームとズボロウスキーは、1922年のマン島TT(ツーリスト・トロフィー)に参戦すべく、新たに2台のマシンを製作する計画を立てた。ズボロウスキーは、このプロジェクトに約1万ポンド(当時の「ひと財産」という意味)を投入して、マシンだけでなく、完全に新しい16バルブDOHC4気筒レーシングエンジンの開発もおこなった。
アストンマーティンの車両重量750kg、最高速度は85mph(約136km/h)を誇る初代グランプリカーには、こうして開発された最高出力約55bhp/4200rpmの1486ccユニットが搭載された。
2座のシートが装着されていたのは、当時のレギュレーションに従って、ライディングメカニックを乗せるためである。ライディングメカニックは、メカニックとしての仕事だけでなく、ハンドポンプを使用して燃料タンクに圧力をかける役割も果たしていたのだ。
いまでは信じられないことだが、当時のレーシングチームは、レースが開催される会場まで、マシンを自走させて行くのが普通だった。
また、エンジン自体にも注目に値するストーリーが存在している。アストンマーティンは、1922年まで複数年にわたってこのエンジンを製作し、大きな成功を手にした。
するとライバル勢(プジョー、ブガッティ、A.L.F.A.など)は、レースおよびスピードレコード用に大排気量の16バルブ・パワーユニットを新開発したのだ。このようにアストンマーティン・パワープラント創世記には、さまざまな逸話が残っているのだ。
ここでズボロウスキー伯爵をクローズアップしてみよう。彼にはクライブ・ギャロップという良き友人であり、ライバルがいた。このギャロップは、プジョーのエンジニアであるマルセル・グレミヨンの知り合いでもあった。
この才能溢れるフランス人エンジニアは、その当時、フランスの自動車メーカー、バロットで仕事をしていた偉大なエンジンデザイナー、アーネスト・ヘンリーの弟子であった。
ある日グレミヨンは、ヘンリーに3.0リッター・バロット・エンジンの詳細について訊ねたことがあった。この時ヘンリーは、ただエンジンの図面をふたつに引き裂いて渡しただけであったが、グレミヨンはこの引き裂かれた図面にバンフォード&マーティンのシングルカム、16バルブエンジンの下半分を繋ぎ合わせ、後にこれが大きな宝をもたらすことになる。
引き裂かれた図面を基にヘンリーが開発した3.0リッター・ユニットは、バンフォード&マーティン1.5リッターSOHC16バルブエンジンへとその姿を変えたのである。
●アストンマーティンのグランプリデビュー
アストンマーティンは、「TT1」、「TT2」と呼ばれるレーシングマシンを開発して、1922年6月22日のマン島TTに参戦する予定だったが、準備が間に合わず、日程を変更して、7月15日にストラスブールで開催される2.0リッター・フランスGPに照準を合わせ直すことにした。これが、アストンマーティンにとってのグランプリレースへのデビュー戦となるのである。
TT1のステアリングはズボロウスキーが握り、その隣にはレン・マーティン(ライオネルとの血縁はない)がメカニックとして搭乗した。TT2のクルーは、ドライバーにギャロップ、メカニックにH.J.ベントレー(自動車メーカーのベントレーとは無関係)という布陣であった。
しかし、彼らが開発したエンジンは排気量が小さく、ライバルと比較してパワー不足は否めなかった。さらに、早急な開発作業に加え、バラストの搭載が義務づけられたために、2台ともエンジントラブルでリタイアという結果に終わってしまった。
しかし、このレースでのリタイアは、まだ船出したばかりのチームにとって、非常によい経験となった。ケンジントンのアビンドンロードに本拠を構えるチームは、このようにしてグランプリ・アドベンチャーの第一歩を踏み出したのである。
「TT」は、当初こそ開発不足を露呈したものの、その後に熟成され、ヴィラフランカ・サーキットで開催された1922年のペーニャ・ラインGPで2位に入るなど、複数のレースで表彰台を獲得。チームは、その翌年に開催されたペーニャ・ラインGPでも2位でフィニッシュし、同年のブローニュGPでは3位でチェッカーを受ける快挙を遂げた。
このままグローリーロードへと駆け上がっていくかに見えたアストンマーティンだったが、1924年に転機が訪れてしまう。最大のスポンサーであるズボロウスキーがレース中のアクシデントにより命を落としてしまったのだ。
彼の早すぎる死により、エースドライバーを失ったアストンマーティンの第1期レースプログラムが終焉を迎えることになる。アストンマーティンのレーシングマシンを使用したプライベートチームは、数多くの成功を収めていたが、アストンマーティンが本格的にグランプリシーンに復帰するまでには、この後20年の歳月が必要であった。
■アストンには、まるでジェームズ・ボンドのようなドライバーいた!
1946年のベルギー・スポーツカーGPは、最高峰クラスのレースではなかったものの、アストンマーティンのレーシング・ヒストリーを語る上で欠かせない戦いであった。
戦後間もない時期のモータースポーツは、今日における絶え間ないテクノロジー開発競争と比べると、比較的穏やかな時代だったといえるだろう。とくに、第二次世界大戦終了直後のレーシングマシンは、当然のことながら、その多くのマシンが完全な新設計ではなかったのだ。
●復活の1940年代
戦前に製作されたアストンマーティン「スピード・モデル」も十分に現役として通用したため、1936年型アストンマーティン2.0リッター・スポーツカーが、ブリュッセル近郊のボワ・ドゥ・ラ・カンブルのロードコースで1946年6月16日に開催されたベルギー・スポーツカーGPに参戦したことも驚くには値しない。
そのうち1台には、アストンマーティン・モータースポーツ史のなかでも異彩を放つドライバー、セントジョン・ラトクリフ・スチュワート・ホースフォール(通称「ジョック」ホースフォール)がステアリングを握っていた。
裕福な家庭の6人兄弟のひとりとして生を受けたジョックは、幼いころから自動車に興味を示し、1934年に、24歳で自身初のアストンマーティンを購入。株式ブローカーとしても成功していた彼は、すぐにアストンマーティン「ファミリー」の一員となり、開発やテストを通じてブランドを支援することになる。
彼は、戦時中はMI5で働き、MI5の職員やエージェント、ダブルエージェント、あるいは囚われの身となった敵のスパイを乗せて、MI5の公用車を運転したこともある異色の経歴の持ち主でもあった。彼は極度の近視のうえに乱視も抱えていたにもかかわらず、視力を矯正するために眼鏡をかけることを嫌っていたといわれている。
さらにジョックは、海軍および空軍施設のセキュリティ・テストにも関わっており、機密情報にも精通していた。彼にとってもっとも「シークレットな」活動は、「オペレーション・ミンスミート(挽肉作戦)」(1943年、枢軸国を欺いて、連合国軍がシチリアに侵入した軍事作戦)において、ドライバーを務めたことである。
興味深いことにこの極秘任務は、1939年に海軍諜報部門責任者を務めたジョン・ゴッドフレイ少将と彼の個人秘書であったイアン・フレミング少佐が詳細にわたってメモに記した、敵軍欺瞞戦略を基にしたといわれている。
戦後に開催されたベルギー・スポーツカーGPでは、このレースに参戦したフレイザー・ナッシュ、BMW、アルヴィスといったライバルメーカーを抑えて、ジョックが真っ先にチェッカーを受けることになった。これは、アストンマーティンの「ビンテージ」マシンが記録した、注目すべき勝利であった。
ジョックのマシンには、1950ccの4気筒OHCエンジンが搭載されていた。最高出力は約125bhp、車両重量約800kgの「アルスター・スタイル」のオープンボディ、2シーター、セパレート・ウィングを備えたこのマシンは、120mph(約186km/h)の最高速度を誇った。
しかし、ベルギーでの勝利は、ホールフォールにとって最高の栄誉ではなかった。それから3年後、彼は1949年のスパ24時間レースにプライベート参戦し、アストンマーティン・スピード・モデルでクラス2位、総合4位に輝いている。この業績を際立たせているのは、控えドライバーのポール・フレールがいたにもかかわらず、ホールフォールはひとりで24時間を走り切ったことであろう。
しかし、ホールフォールは、このレースからわずか4週間後、英国のシルバーストーンで開催された1949年BRDCトロフィーでレーシング・アクシデントに見舞われ、この世を去ってしまう。
アストンマーティン・オーナーやエンスージアストのなかでも群を抜く彼の偉業を記念して、アストン・マーティン・オーナーズ・クラブは、彼の記憶を後世へと残すため、セントジョン・ホースフォール・メモリアル・トロフィーを毎年開催している。
■ル・マンを制したアストンマーティン以外に注目すべきマシンとは
1950年代は、アストンマーティンにとってエキサイティングな時期となった。1947年にアストンマーティンを買収し、同年にラゴンダ・ブランドを追加したデイヴィッド・ブラウン卿は、英国流スポーツカーを着実に開発、その魅力を大いにアピールすることに成功したのである。
●デイヴィッド卿のエキサイティングな1950年代
デイヴィッド卿は、アストンマーティンの商業的な成功にはモータースポーツが重要であると認識し、1955年に、世界スポーツカー選手権だけでなく、当時はまだ新しいカテゴリーだったF1世界選手権でも優勝することができるマシンを作るという野心的な計画を打ち出した。
アストンマーティンの歴史を振り返ると、ル・マンを制した「DBR1」やその後継マシンである「DBR3S」に注目が集まりがちだが、初期のシングルシーターである「DP155」によるプログラムは、アストンマーティンにとって貴重な学習の場となり、50年代後半のGPマシンの開発に繋がっている。
このプログラムと並行して、デイヴィッド卿は、新しいエンジンや新しいロードカー開発にも着手し、「DB4」が誕生した。
その後、レーシングカーのアストンマーティン「DBR4」が開発されることとなる。このマシンは、1957年にテストが開始されたものの、デビュー戦は1959年のBRDCインターナショナル・トロフィーであった。同イベントは、F1のレギュレーションに則って、同年5月のシルバーストーンで開催された。
このレースには、2台のアストンマーティンが参戦し、ロイ・サルバトーリがル・マン24時間レースでドライブしたカーナンバー1が、ジャック・ブラバムのクーパー・クライマックスT51に次ぐ2位でチェッカーを受けている。
2493cc直列6気筒ドライサンプのRB250エンジンは、DBR1スポーツカー・エンジンと同一の基本デザインを採用していた。このパワーユニットを搭載する「DBR4/250」は、スペースフレーム・シャシのシングルシーターで、最高出力は256bhp、車両重量は575kgであった。
サルヴァドーリやキャロル・シェルビーなど、スタードライバーがステアリングを握ったものの、フロントエンジンのDBR4は、最新ミッドシップのライバルマシンの後塵を拝するしかなく、DBR1がスポーツカー・シーンで見せたような成功をF1で再現することは叶わなかった。
後継マシンの「DBR5」もデビュー戦で成果を収めることができず、アストンマーティンは、1960年にシングルシーターの最高峰クラスから撤退するに至った。
●アストンマーティンの新たな幕開け
近年のアストンマーティンは、50年にも及ぶブランクを経て、レッドブル・レーシングのタイトルスポンサー兼テクニカル・パートナーとしてGPシーンに復帰している。
両社のパートナーシップはさらに発展し、驚異のハイパーカー、アストンマーティン「Valkyrie(ヴァルキリー)」として結実した。このハイパーカーは、2021年から生産が開始される予定だ。
英国のラグジュアリー・ブランドは、アストンマーティンF1チームとして、2021年シーズンからの参戦に向けて現在鋭意準備中だ。
アストンマーティン取締役会会長のローレンス・ストロールは、次のように述べている。
「アストンマーティンの名前がF1に復活し、カラフルでダイナミックなスポーツの歴史に再びその名を刻むことになりました。英国の偉大なスポーツカー・ブランドで仕事をする私たちにとって、本当にエキサイティングな瞬間が訪れます。
F1世界選手権は、アストンマーティンにふさわしい場所です。そこは、私たちのブランドがいるべき場所でもあり、アストンマーティンのレースの歴史における新たな章は、世界中のアストンマーティン・ファンだけでなく、F1ファンの方々にとっても、非常にエキサイティングなものになるでしょう」
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