戦国期に繰り広げられた最大規模の山岳戦
戦国期最大の山岳戦と言われる「三増(みませ)峠の戦い(三増合戦)」の史跡をバイクで巡りました。じつはこの付近に武田軍と北条軍の激しい戦があったらしい、という漠然とした知識だけでやって来たのですが、現地に建てられた解説板や、後日ネットで調べるうちに、かなりの規模の戦いであることを知りました。場所は神奈川県愛甲郡愛川町の三増周辺です。
現地の解説板によると、「1569年10月、武田信玄が小田原攻めの作戦を計画し、主力2万を率いて小田原城の北条氏康を攻めた後、鎌倉鶴岡八幡宮へ参詣すると偽りの報を流しながら撤兵し、甲斐(山梨県・武田の拠点)への道をとった」と記されていました。この情報を得た氏康は「武田は三増峠を必ず通る」と予測し、先回りして大きな戦闘となったようです。
と、その前に、なぜ武田信玄が北条氏康を攻めたのか? それを調べていくうちに分かったのが、「三国同盟の破綻」でした。
1554年に甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川による和平協定が結ばれました。これにより武田は、度々交戦していた越後の上杉謙信との戦に専念できるメリットがありました。また北条にとっても敵対する上杉に対して、周囲の脅威を取り除くことができ、今川もまた、西の尾張への進出に専念できたと言われています。
ところが、1560年の「桶狭間の戦い」で今川が敗北し、武田は同盟から離脱して今川の領土を狙います。それに対して北条が妨害に出ます。ここで両者の争いの火蓋が切られます。
先の解説板で「小田原攻め」から撤退する武田の動きが書かれていましたが、これは「小田原城」に籠城する北条や、「滝山城」などの支城を落とせず手間取ったことも原因のようです。
10月1日には小田原城下で民家や社寺に放火したものの、武田軍は無理をせず4日には退却をしています。その動きを察知した北条が先に三増に到着、しかし「小田原城」からの本隊到着前に武田軍が来たため、一旦兵を整えるために退きました。
先に高地に旗を立てたのは武田で、現在もゴルフ場の中にその跡地が残っています。戦闘は北条有利のうちに展開されましたが、武田方の山県昌景(やまがたまさかげ=武田四天王の1人で「赤備えの騎馬軍団」で知られる)らが指揮する5000の精兵(せいびょう)が北条方の背後を急襲します。
武田劣勢の中、山に追い詰められているように見えた山県が山の向こうで引き返し、北条の背後を突いたのです。これにより北条軍が総崩れとなりました。
山県昌景という猛将は、1572年「三方ヶ原の戦い」で徳川家康を恐怖のどん底に突き落とし、1575年の「長篠・設楽原の戦い」で鉄砲に破れた人物です。2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』では橋本さとしさんが凄みのある役柄を演じました。
北条氏康の嫡男、氏政(うじまさ)が現在の厚木市まで救援に駆けつけるも間に合わず、小田原に引き返しています。武田信玄は深追いをせずに戦勝の式を行ない、戦死者を供養した翌日に甲府に向けて帰陣したそうです。
戦死者の首を葬ったとされる「首塚」や、道を隔てた森の中に胴塚も残っています。今回は首塚や「武田信玄旗立松の跡」などを訪れました。
この戦による死者は、武田方900人、北条方3269人とのこと。長閑な田舎の風景からは想像できない激戦の地だったのです。1706年には戦死者の霊を供養するために首塚の供養塔が立てられ、現在も花が供えられていました。
また、三増峠を貫く県道65号の「三増トンネル」には幽霊が出没する噂もあり、それくらい凄惨な最期を迎えた武士たちが多くいたということなのでしょう。そんなことを想像しながらのバイク旅となりました。
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