F1ではこれまで、18人の日本人ドライバーが本戦に出場し、その内10人のドライバーがフル参戦を果たした。現在アルファタウリから参戦している角田裕毅もそのひとりだ。その一方で、F1グランプリへの出走こそ叶わなかったものの、フリー走行といった公式セッションやプライベートテストなどでF1マシンをドライブした日本人ドライバーも多くいる。
“日本一速い男”の称号を星野一義から受け継ぎ、1990年代後半から2000年代にかけて“帝王”として国内レースで圧倒的な速さを見せた本山哲も、かつて2度F1ドライブを経験している。彼は2003年のF1日本GPの金曜日に行なわれたテストセッションでジョーダンEJをドライブ。同年末にはスペインのヘレスサーキットで行なわれた合同テストでルノーのマシンのステアリングを握った。
■【特集】R35 GT-Rラストラン 第1回:本山哲「GT-Rは一番いい思いをさせてもらったクルマ」
1998年にフォーミュラ・ニッポン(現スーパーフォーミュラ)で初のチャンピオンを獲得した本山は、2001年、そして2003年にも王者に輝き、既に国内最強ドライバーという地位を欲しいままにしていた。当初は海外志向がなかった本山だったが、2003年は様々な意味で彼の考えを変えるターニングポイントとなった。
「(フォーミュラ・ニッポンで)チャンピオンを獲りはじめた頃から、F1チームからのコンタクトは何かしらありましたが、正直あまり海外志向がありませんでした」
本山は当時をそう振り返る。
「ただ親友だった加藤大治郎が亡くなって(2003年のMotoGP日本GPで事故死)、彼の思いも背負って、頑張っている姿を見せたいと思うようになり、海外でチャレンジしようという考えに至りました」
「2003年にはフォーミュラ・ニッポンとGT(全日本GT選手権/現スーパーGT)の両方でチャンピオンを獲ることができました。自分としては、日本ではよりチャレンジングなことがないと感じていたので、可能性があればF1へ、と思うようになりました」
「その時にたまたま、鈴鹿のフリー走行に乗るドライバーをジョーダンが探しているということだったので、そこに行ってみようと。F1マシンがどういうクルマなのかは乗ってみないと分からないですし、ちょうどいいタイミングだったので、そのチャンスを掴みにいきました」
迎えた鈴鹿で与えられた走行時間はわずか1時間。当時のフォーミュラ・ニッポンはシフトノブで変速するシーケンシャルシフトを採用していたのに対し、F1はセミオートマチックのパドルシフトであり、さらにトラクションコントロールなどのハイテク装備も備えていたため、その適応には少し苦労したという。
「当時のF1はハイテク技術が色々入っていて、(トランスミッションは)セミオートマ、実際にはフルオートマに近い状態でした」
「パッと乗って一番驚いたのはエンジンパワーです。当時のフォーミュラ・ニッポンと比べると300馬力くらい違ったかな。鈴鹿サーキットを走って『狭っ!』」と思うくらいでした(笑)」
自ら交渉しジョーダンでのF1ドライブを実現した本山だが、レギュラーシート獲得への道は険しかった。当時は現在ほど若手ドライバー育成プログラムによる“囲い込み”のようなものは多くなかったものの、それでもフェラーリ、BMW、ルノー、ジャガー、ホンダ、トヨタといった多くの自動車メーカーが参画しており、その後ろ盾がない状態でF1の世界に入り込むことは容易ではなかった。
ただ、当時本山が所属していた日産がルノーと提携していたこともあり、その繋がりも活かしてルノーでF1テスト走行に参加するチャンスを得た。
当時のことを、本山はこう振り返る。
「F1は、その世界に入ること自体が難しいですし、テストでルノーに乗ったところでそのままルノーのシートを獲得できる訳ではないということは最初から理解していました」
「ただジョーダンのテストにしろ、とにかく何か関わらないと話は進まないし、色々トライすることで、それをきっかけに何かが生まれるかもしれないと思っていました」
「ヘレスでのテストは合同テストだったので、22台くらいいたと思います。それまで1時間しかF1で走ったことがない中で、初めての合同テスト、初めてのサーキット、初めてのマシンだったので緊張もしましたけど、集中して気合いも入れて走りました」
「当時のチームメイトは(フェルナンド)アロンソでしたが、同じタイヤで走った時は午前中から1秒差以内で走れました。クルマ的にもその年のチャンピオンシップで上位のクルマだったので、ジョーダンよりもクルマの仕上がり、クオリティは高く、すごく運転しやすかったですね」
「(首脳陣からの)評価の部分はあまり分からなかったですけどね。初めてパッと乗って普通には走れたので……どうでしょうね。ただ特別難しいと思うことはありませんでしたね。こんなに簡単だったんだって」
その年のシーズンオフにF1シート獲得を目指し交渉した本山だったが、結果的にレギュラーシートを得ることはできなかった。そこには金銭面、マネジメント面など様々な壁があり「ストレスの溜まる冬だった」と本山は振り返る。
「当時の最新のF1マシンをドライブする機会を持てたことは非常に良い経験でしたが、それとは別に、F1の世界に入る、F1のドライバーになるという部分はまた別の難しさがありました」
「F1の世界できちんと仕事ができるようなマネジメント体制がなければ無理だと思いましたし、そういったものが自分にはありませんでした。その状況の中でも、冬の間に一生懸命可能性を探りましたが……お金が絡むシビアな問題も多く、ストレスの溜まる大変な冬でした。しかもその間、日本のシートはキープしていませんでした」
そう語る本山。翌2004年シーズンも国内レースに引き続き参戦することとなったが、全日本GT選手権では前年に引き続きNISMOからの参戦となったものの、フォーミュラ・ニッポンに関しては前年所属したTEAM IMPULのシートが既に埋まっていた。しかしこれが、「日本ではよりチャレンジングなことがない」と感じていた本山に新たなチャレンジを与えることになる。
「フォーミュラ・ニッポンではIMPULのシートが既に決まっていたので、結果的にTEAM 5ZIGENに座らせてもらいました」
「5ZIGENは前年度ランキング下位のチームでしたが、自分がF3で走れない時期に5ZIGENの木下(正治)社長に声をかけてもらって、F3で復活できたことが後のレーシングドライバー人生に繋がっていったという恩があったので、その感謝の気持ちも含めて5ZIGENに入ることに決めました」
「5ZIGENのクルマで優勝することが自分に課した新たなチャレンジになりました。それまではIMPULで走らせてもらっていましたが、そこである意味簡単に勝ってしまうのではなく、それではまた違ったチャレンジができたということは自分としては面白かったと思っています」
同年は5ZIGENで優勝するという目標も達成し、GTでは見事連覇。その後もフォーミュラとGTで1回ずつタイトルを獲得するなど実績を積み上げ、本山は“帝王”としての地位を確立していった。
そんな彼にとって、2度のF1ドライブ、そしてF1シート獲得への挑戦はどんな思い出として残っているのだろうか? 様々な苦境や壁を経験した上でもなお「挑戦して良かった」と思えるものだったのか? そう尋ねると、彼はこう表現した。
「挑戦するしかなかったです。日本の中で新たな課題が見つけられない時でもあったので」
「(F1挑戦は)夢ではなかったですね。F1ドライバーになりたいと真剣に思ったことは、正直あまりありませんでした。レーシングドライバーの人生には色々あって、全員がF1を目指さないといけないというものでもないと思いますし。F1で海外を転戦するタイプじゃないというのは、自分でも分かっていたし。日本の便利で不自由ない生活が好きだったんですよね」
「ただ、F1マシンに乗ることは望んでいましたし、自分のドライビングスキルと感覚で“乗れるか”どうか、確認してみたかったというところはありました。そして(F1ドライブを経て)自分の中では『乗れるな』と。良い経験になりました」
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