世界にアピールするにはラリーでの活躍が効果的
近年、日産のモータースポーツと言えば、SUPER GTやFORMULA Eなどサーキット・レースの印象が強いのですが、かつてはWRCを始めとするラリーでの活躍も目立っていました。
高性能なのにモータースポーツでは不発に終わった90年代の国産珍車4選
アフリカのハードな悪路で名高いサファリやフランスの厳かな歴史漂うラリーであるモンテカルロ、あるいはモータースポーツの伝統を育んできたイギリスのRAC(現在のウェールズ・ラリーGB)といった名だたるイベントでも優勝したり、トップを争ったりして“技術の日産”を世界にアピールしてきたのです。
今回はそんなラリーで活躍した日産の忘れられない名車5台を紹介しましょう。
1970年 ダットサン・ブルーバードがサファリ優勝
日産が初めて海外ラリーに挑戦したのは1958年。ダットサン210によるオーストラリア一周モービルガス・トライアルがその舞台でした。当初は、車両確認テスト&外国車の実勢調査を目的とした参戦でしたがクラス優勝を果たし、そこからラリー活動が本格的に進められることになりました。
ダットサン210、310ブルーバード、410ブルーバードと経て、67年には510ブルーバード(P510)が誕生します。
66年に410でクラス優勝を果たしていたサファリに、68年から510での参戦を開始。この年はリタイアに終わりましたが、翌69年にはクラス優勝とチーム優勝を飾ります。こうして迎えた70年の第18回イーストアフリカン・サファリラリーでは前年のクラス優勝&チーム優勝に加えて、悲願だった総合優勝を果たすことになりました。
サファリで三冠を勝ち取った日産のエース車は、小排気量=非力な1.6リッター直4エンジンながら、作戦面まで含めた総合性能でライバルたちを打ち破り “技術の日産”をアピールすることに成功したのです。
前年69年の実戦で撮影したフィルムを使用して作成された、石原裕次郎主演の映画『栄光への5000キロ』のヒットも手伝い、ブルーバード=サファリラリーのイメージも醸成されることになりました。
1972年 ダットサン240Zがモンテカルロ・ラリーで3位
サファリラリーで三冠を達成し“ラリーの日産”をアピールした510ブルーバードの後継として、主戦マシンとなったのはスポーツカーのダットサン240Zでした。
5座の4ドアセダンから2シーターのスポーツカーへの継承は、一見脈絡のないようにも映りますが、実は510ブルーバードのL16型1.6リッター直4エンジンと、240ZのL24型2.4リッター直6エンジンは、基本設計が共通しておりL16に2気筒を追加したのがL24、という考え方でした。
そんな240Z(HLS30)は、71年の開幕戦モンテカルロでメジャーデビューを果たし、ポルシェやアルピーヌなどリアエンジンのライバルに伍して5位入賞を果たします。
71年シリーズのサファリラリーではデビュー年ながら即、総合優勝を飾ります。が、スポーツカーの本領は、その後もモンテカルロラリーで発揮されてゆきます。カー・ブレーカー・ラリーとも比喩されるサファリに比べて、ヨーロッパで行われるラリーは、よりスポーツ性が高く、クルマのドライバビリティを試すには絶好の舞台です。
72年、第41回のモンテカルロラリーでは3位入賞。灼熱の大地だけでなく氷雪のワインディングでも高いパフォーマンスを発揮、オールマイティなスポーツカーとしてその名を轟かせました。
1982年 日産バイオレットがサファリ4連覇
70年にサファリで三冠を獲得した510ブルーバードは、その後のモデルチェンジでブルーバードU(610系)へと移行します。しかし大型化が災いしたかサファリ・ラリーでは期待されたほどの好成績を挙げられませんでした。
そこでひと回り小さなボディのバイオレット710が開発されました。ブルーバード直系の4ドア・ラリーマシンとして真の後継車となっていき、77年にフルモデルチェンジで登場した2代目のバイオレット(A10系)がラリーで大活躍することになります。
78年のサファリラリーで、輸出名のダットサン160JでエントリーしたA10バイオレットは3位入賞を果たしますが、翌79年にはシェカー・メッタ/マイク・ドゥーティ組が総合優勝を飾っています。
80年に連覇を果たした同コンビは、翌81年からは16バルブ2リッター直4のLZ20Bエンジンを搭載したグループ4仕様のバイオレットGT(PA10型)を持ちこみ82年まで連覇。同一コンビ、同一モデルによる、なんとサファリ4連覇の偉業を成し遂げました。
1983年 持てる技術投入した日産240RSが登場
1983年、モータースポーツの車両規定が一新されました。それまでグループ1~4で争われていたWRCも主役がグループBに置き換えられることになり、これに応える格好で日産は、ラリーの次期主力マシンとしてシルビア(S110系)をベースにしたグループBモデルを開発することになりました。それが日産(ダットサン)240RSです。
市販車をレギュレーションに則ってチューニングするのではなく、ラリー(やレース)に向けた専用モデルを開発する。自動車メーカーの戦いは、新たなステージに突入していたのです。
ボディは4ドアセダン(バイオレット)から2ドアクーペへと一新されていますが、エンジンをフロントに搭載して後輪を駆動、サスペンションもストラット/4リンク・コイルと基本レイアウトはバイオレットGTから踏襲していました。そしてエンジンも同じ直4ながら2リッターのLZ20Bから2.4リッターのFJ24型にコンバートされ20馬力ほどパワーアップしていました。
新生グループBに向けて登場したスポーティクーペの240RSは、83年の第51回モンテカルロラリーにティモ・サロネンを起用したのですが、しかしながら、世の趨勢は、アウディ・クワトロA1、A2など、ターボ+4WDへと移行して行きます。サロネンは240RSでシーズン後半にニュージーランド2位、1000湖8位でポイントを得ましたが、マシンは時代に取り残された格好となり、高い競争力を発揮することは叶いませんでした。
1992年 日産パルサーGTI-R コンパクトさの失敗と成功
グループBによる技術競争が激化すると開発コストの高騰を招きました。また高性能マシンでのアクシデントが繰り返されたこともあり、1987年からWRCの主役はグループAに置き換えられることになりました。
当初は3リッターV6エンジンを搭載したシルビア(S12系)で参戦。しかしグループB時代の終盤から様々な路面状況に対応するラリー競技の世界では4WDマシンの優位性が際立ってきました。
そこで新たな本命として白羽の矢が立てられたモデルがパルサー(N14系)。3ドアのハッチバックボディのフロントに、直4エンジンを横置きに搭載した典型的なコンパクトカーで、これに4WDシステムを組み込むとともにエンジンをターボで武装すれば、最強のラリーマシンが完成する。そんなコンセプトでパルサーGTI-Rは仕上げられました。
しかしグループA仕様のラリーカーを製作する上では、コンパクト過ぎるボディが災いしてしまいました。ひとつは大きなタイヤを装着できずに強大なパワーを持て余してしまい、加えてエンジンルームには補機などがギッチリ詰め込まれますので、結果、クーリング(冷却性)に苦労してしまう…。そんなことから2年間と短い期間でWRCの主戦場からは降りてしまいました。
ただし悲運のモデル、グループA仕様のワークス・マシンが撤退した後も、改造範囲がより厳しく制限されたグループN仕様車ではパルサーの活躍は続きます。
市販車の基本性能の良さが成せる技でしょう、クラスタイトルをも勝ち取っていました。
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みんなのコメント
なに『世界を圧巻』って?
それを言うなら、『世界を席捲』だろ。
いくら昔を懐かしんでも、もう日産は帰らない。