六郷家11代によって残された土地
秋田県の由利本荘市(ゆりほんじょうし)にある「本荘公園」をスーパーカブで訪れました。ここには「本荘城址」が整備され、かつての「本荘城」については由利本荘市のホームページにその歴史や風土文化などが詳しく解説されています。それによると1613年頃、本城満茂(ほんじょうみつしげ)により築かれた「本城城」が起源となっているようです。
満茂はもともと東北地方・出羽国最上郡山形を支配した最上氏の重臣で別称がありましたが、本荘への入部とともに「本城姓」を名乗っていたとのこと。それが1622年に「最上騒動」と呼ばれるお家騒動の結果、最上氏の改易となり退去することに。このすぐ後に城は幕府の命によって取り壊されたようです。
しかし1623年には常陸府中(現在の茨城県石岡市)の大名・六郷政乗(ろくごうまさのり)が城を修復して「本荘城」として居城します。政則は「関ヶ原の戦い」で徳川家康の側について戦った功績が認められて常陸府中1万石の大名へ、さらに出羽国由利本荘2万石に転封されたのでした。
以後、六郷家は11代、250年にわたってこの地を支配しました。戦国時代の秋田で勝ち残った六郷氏が築いた城と城下町の痕跡をいま、現代の人々が目にしているというわけです。
「本荘城」を訪れる前に、約20km北にある「亀田城」にもスーパーカブで訪れたのですが、本荘藩と亀田藩との間で、真木山(秋田県立大学後方一帯の山)などをめぐって100年以上も争われたそうです。
そして幕末の「戊辰戦争」(1868~1869年)において、元々は本荘藩、秋田藩、亀田藩は旧幕府軍に加わっていましたが離脱し、敵となった旧幕府軍の庄内軍が「本荘城」に迫ります。11代藩主の六郷政鑑(まさあきら)は城に立て籠るも最後は火を放って秋田に退避し、この戦により城下の大半が焼かれてしまいましたが、戦後藩主らが復興に取り組んだそうです。
本丸跡には土塁に関する解説板がありました。南北最大124m、東西約96mの規模の「本丸」、中腹に「二の丸」があり、その間は人工の崖「切岸(きりぎし)」で隔てられています。
「二の丸」から「本丸」にかけては「枡形虎口(ますがたこぐち)」と呼ばれる防御構造を3箇所設けたり、土塁の上の回廊外壁に鉄砲や弓を射るための「狭間」(さま・円形や三角形の窓)が設けられ、発掘調査により、西側の土塁の高さは4mもあったとなどが分かっているようです。発掘の様子も解説板の写真で見ることができました。
本丸には博物館の「修身館」や「本荘神社」もあります。神社にお参りする人や、公園内をランニングする人の姿も見られました。ここを訪れたのは8月12日のことでしたが、79年前の1945年8月13日に、満州国民の逃亡、悲劇がはじまったことを「満州開拓の碑」を見て知りました。
この地で結成された350名の満州開拓団は開拓当初は成果をあげていましたが、敗戦後日本軍に見捨てられ孤立。その後は逃亡、虐殺、略奪、餓死、病死、過酷な収容生活などを経て、わずか129名しか日本に生きて帰れなかったそうです。
由利本荘の歴史を知る場所であると同時に、市民の憩いの場として親しまれていることも感じられた城跡巡りとなりました。
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