レーサー、ブライアン・レッドマンが振り返る
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)1972年、F5000でのレッドマンの不幸を横目に、幸運を得たのはグラハム・マクレーだったが、彼は大胆な発言や激しい気性で「カシウス(ローマの戦士)」と呼ばれていた。ニュージーランドのウエリントンで生まれたマクレーは、ドライバーとしてもエンジニアとしても、1972年までに成功を収めていた。タスマン・シリーズでの連勝のほか、SCCAのタイトルも獲得し、ヨーロッパでも多くのレースで勝利を上げた。
マクレーはロンドンの仲立人、ジョン・ヘインズの力を借りて、技術者のマルコム・ブリッジランドを起用。F1マシンのマクラーレンM19Aから発想を得たコークボトル・ラインを持つレダLT27を開発する。その後マクレーGM1へとマシン名を改めている。
さらにボディをボックス形状としたGM2をレースチームへ販売するものの、好調は長く続かなかった。スピードが出たものの信頼性が低く、ニュージーランド人ドライバーのクリス・エイモンが1975年に1勝を挙げただけに留まる。1973年10月には、マクレーが所有していたプール・ファクトリーは、ペンスキーのF1プロジェクトへと売却されてしまう。
だがマクレーはその後に26勝を挙げ、タイトルも4度獲得。1978年のオーストラリア・グランプリではワンオフ・マシンのGM3で優勝している。コクピット周りが透明なF5000マシンは最も有名な彼のマシンかもしれない。
1973年、ローラ社のアメリカの輸入業者だったカール・ハースは、シャパラルのボス、ジム・ホールの意見もあり、ドライバーにレッドマンを指名した。「わたしはスポーツカーのドライバーだと記憶されているようですが、アメリカF5000で戦った4シーズンはキャリアの中でも最高の時でした」 と振り返るレッドマン。
タイヤが硬くドリフトしっぱなし
「1973年は惜しくも逃しましたが、1974年から1976年に掛けてはタイトルを獲得できたのです。1973年は、ヨーロッパでフェラーリをドライブしていて、F5000は2戦欠場しています。そのかわりジョディー・シェクターが5勝を挙げ、わたしは4勝に留まったので、彼がタイトルを取りました」
「シェブロンにはあまり良い記憶はありません。マシンの開発計画を立てましたが、走行テストができたのはわずか30分。開発の予算がなかったのです。当時のローラはT400を除いて、非常に仕上がりが優れていました。バランスは完璧で、車重は重かったのにサーキットによってはF1よりも速く走れました。ワイドタイヤなので意図的にはドリフトはきないのですが、ダウンフォースが充分ではなく、高速で走行中にスライドするほどでした」 とレッドマンは話す。
30歳までシングルシーターのレースカーを運転する機会がなかったレッドマンにとって、F5000は厚遇だったのか、F1チームのシャドーからの誘いを断っている。一方で23歳のジョディー・シェクターにとっては、キャリアアップの踏み台だった。「当時はまだ若く、F5000は素晴らしく楽しいものでした。優勝したりクラッシュしたり、雑誌のスポーツ・イラストレイテッドにも特集されました」
「初めはT101をドライブしましたが、ドリフトしっぱなしでした。タイヤのコンパウンドが硬く、滑りやすかったのです。ウォトキンズ・グレン・サーキットでそれを指摘しました。アメリカン人レーサーのボブ・レイジャーが彼のローラ製シャシーを貸してくれ、エンジンを載せ替えました。そのクルマで2秒近く速いタイムを出し、ポールポジションを取ったんです」と話すジョディー・シェクター。
「非常に貴重な機会だったと思います。みんなが見ている中で、ピットレーンを歩くのはなかなか気持ちがいいものです。その後、同じローラ・シャシーを入手しましたが、費用の都合で同じ性能は引き出せませんでした。シーズンでの優勝賞金すべてを投じる必要があるほどでした」
世界各国で独自に展開したF5000
レッドマンは続ける。「レースの流れが変わったのは1974年。パーネリ・ジョーンズ・レーシングが、マリオ・アンドレッティとアル・アンサーを高額で雇った時です。われわれのチームから、チーフメカニックのジム・チャップマンも引き抜いていきました」
「T332sをドライブするマリオ・アンドレッティと一緒に走ったレースは、最高の思い出のひとつです。2年間ともに戦いましたが、1度も接触はしていません。信頼していましたし、わたしのスポーツカーで培った経験が、トランスミッションの扱いでも役に立ったと思います」
ハンサムなボディをまとったシェブロンB24をドライブしたピーター・ゲシンは、英国ブランズハッチのレースで1973年に優勝。シェブロンのチームVDSはレーシングドライバーのテディ・ピレットの活躍で、その年のヨーロッパタイトルも獲得するほか、1974年のタスマン・シリーズで優勝する。1975年にローラT400sにシャシーを交換し、ピレットは2度めのヨーロッパタイトルを奪取。ゲシンはブランズハッチで優勝した。
1976年に英国で開かれたシェル・スポーツ・グループ8インターナショナル・チャンピオンシップは、F1やF2などの参戦も可能だったが、デビッド・パーレイのF2をベースにしたF5000シェブロンB30が強さを見せた。
一方でオーストラリアでは、ホールデン・レプコ製のエンジンと、軽量だがパワーで劣るオーストラリア・レイランドP76のV8エンジンが成功を収めた。ダッジ製のパワフルで重たいV8を搭載したジャッキー・オリバーが駆ったシャドーDN6Bは、1976年のロード・アメリカで勝利する。だが、シボレー製のスモールはF5000の花形エンジンで、人気も高かった。
国際的なグランプリは開かれなかった
「アメリカのプロモーターの力もあり、当初はF5000よりもカンナム(カナディアン・アメリカン・チャレンジカップ)の方が人気が高かったのですが、1974年にはカンナムの人気は終わっていました」 と話すレッドマン。「SCCAはわれわれにオープンホイールのボディを作るように強要し、カンナム・マシンと読んだんです。マーケティング的な手法だったのでしょう」
真実は不明確だが、USAC(アメリカ合衆国自動車クラブ)は、当時のカンナム・マシンに搭載されていた高価なターボエンジンの代わりに、F5000のようなクルマを1974年に導入しようと考えていたのかもしれない。だが、このレース計画は結局表面化することはなかった。
「SCCAがF5000を休止させたのは大失敗だったと思います。A.J.フォイトなど、多くのアメリカ人ドライバーが関わっていました。主催者はカンナムに固執していたのです。その2年後に、CART(チャンプカー・ワールド・シリーズ)が始まり、大きな観客を集めました。パワーやパフォーマンス、見た目、比較的安価な開発費など、その規格はF5000にピッタリ合致していたんです」 と話すデヴィッド・ホブス。
ニュージーランドでもF5000は終わりを迎える。1976年になるとオーストラリアとニュージーランドは別開催となり、翌年から1.6Lのフォーミュラ・パシフィック・レースへとスイッチ。オーストラリアでは、ロスマンズの支援でF5000が継続され、インターナショナルシリーズとして1979年まで、ナショナル・ゴールドスター・シリーズとして1981年まで開催された。
ジェームズ・ハントが1978年にオーストラリアで優勝するも、世界の興味はF1へと移っていった。F1レースとも釣り合うほどの人気を誇ったのにも関わらず、なぜか最後まで国際的なグランプリは開かれなかった。F5000の明るい未来は、再び訪れることはなかった。
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