サファリ・ラリー それぞれの時代のインパクト
久しぶりにWRC(世界ラリー選手権)サファリ・ラリーが開催された。東アフリカの言葉、スワヒリ語で“safari”とは“旅”を意味する。その名前がつけられているサファリ・ラリーは、過酷なステージで知られている。サファリ・ラリー自体はアフリカ・ラリー選手権とケニヤ・ラリー選手権のダブルタイトルとして毎年、粛々と開催されていたが、世界選手権トップカテゴリーとしての開催は19年ぶりである。イベントのイメージキャラクターはおなじみのチーター。
サファリ王者の「後継」だけど大苦戦! スープラは何故「ラリー」では歯が立たなかったのか?
かつて日産が大活躍したこのラリーは日本人にもなじみが深いが、世代によってサファリの印象や評価が大きく異なるのがまた面白い。それだけに、それぞれの世代でサファリ・ラリーのインパクトは大きかったのだろう。 サファリは時代によってラリーの様式や規模が大きく変わっていった。
1969年公開の石原裕次郎主演「栄光への5000キロ」という映画は、サファリ・ラリーを舞台にしていることもあり、日本の第一世代のラリードライバーたちにとっては伝説でもあるとのことだ。これでラリーを始め、人生を狂わせたジー様たちがたくさんいるらしい。
このころのサファリ・ラリーはケニヤ、タンザニア、ウガンダと東アフリカ3カ国を周遊する5000km。とてつもない長丁場だった。
Tシャツ、短パンでかっ飛んでいたWRC
さすがにこれと比べて今のサファリはサファリじゃない! なんて言う人はいないが、私が競技に関わっていた90年代のサファリ・ラリーでさえ、今とは全く競技形態が違っていたのだ。
現在のWRC競技規則での安全規則はさらに厳しいものとなっているが、かなり以前からモータースポーツ競技だけあってラリーに出る際は、ドライバーとコドライバーは不燃性の分厚いレーシングスーツを着込みヘルメットを被るのが普通となっていた。
しかし90年代のサファリ・ラリーはレーシングスーツの代わりに短パン、Tシャツ、ヘルメット代わりに汗止めのヘッドバンドをしての走行だった。 サバンナの中のロングストレートでは4WDターボマシンは楽に200km/hを超える。荒れたグラベルステージなのでマシンは常に小刻みにジャンプして思いのほか乗り心地はいいが、地に足が付いていないようで心もとない。それがダートでの200km/h走行の感触だ。
危険極まりないステージなのにヘルメットも被らなくていいという不思議な規則。
閉鎖のない開放道! 感無量だが恐ろしくもあり
当時、サファリを除くWRCイベントのすべてが完全閉鎖のSS(スペシャルステージ)で構成され、SSラリーは完全防備のヘルメット、レーシングスーツである。
しかしサファリだけは競技ステージが長すぎてクローズドできないためにSS制ではなくTC(タイムコントロール)制で開催されていたのだ。アフリカならではの特殊な形態だ。
TC制とは「一般道を走行する」という意味なのでヘルメットも何もいらない、という規則の上に成り立っていたのだ。危険極まりないが、あの頃は誰もが納得していたのだから恐ろしい。
このように今と以前のサファリは激しく違うのだから、WRC復活開催となった今年のサファリに対する、こんな短いサファリは‘あーだ、こーだ‘という議論は無意味なのである。
次回はサファリ・ラリー独特であったTC制ならではの、だからこそ出来た事、起きていた事をお伝えしよう。クワヘリ!(スワヒリ語でバイバイ)
執筆/三好秀昌
ラリードライバー、フォトグラファー。1990-1994年まで篠塚建次郎選手をドライバーとする三菱ラリーアートのチームマネージャーとしてサファリ・ラリーに関わってもいる。自らもスバル・インプレッサのドライバーとして1995、1996(WRC)、1999(WRC)年参戦。1995~96年2年連続サファリ・ラリーでグループN優勝。2007~08年、アフリカ選手権サファリ・ラリーに三菱ランサーエボリューションのドライバーとして参戦。2008年FIAアフリカ・ラリーチャンピオン獲得。5回のサファリ・ラリーでは完走率100%。親しみあるショットの動物写真家でもある。 1995年三好秀昌選手サファリ・ラリー・グループN優勝時の表彰シーン、半ズボン半袖で競技していたことが分かる。
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