不運にさらされたベントレー・コーニッシュ
失われたプロトタイプは、クルマ好きの想像力を駆り立てる存在だろう。斬新なアイデアがカタチになりながらも、結果的に作り手によって壊されることが少なくない。
【画像】破壊されたプロトタイプ ベントレーMkV コーニッシュ 同年代の上級モデルと写真で比較 全125枚
現代に蘇ったベントレー・コーニッシュは、異なる不運にさらされた1台だったが、醸し出す神秘性を否定することは難しい。第二次大戦前に17台作られたベントレーMkVがベースで、平和が続いていれば1940年に発表されていたはず。
滑らかなボディは、軽量化へ配慮されていた。160km/h以上での巡航も難しくなかった。当時はベントレーを傘下に収めていた、ロールス・ロイスのファントムIIIの後継になる可能性も秘めていた。
MkVは、ロールス・ロイスが立ち上げたばかりのシャシー部門による初のモデルで、裕福な層が好むオーナー・ドライバーズカーが目指された。ファントムIIIのように、お抱え運転手が走らせる大型サルーンの需要は減少していた。
トランスミッションには、2速から4速まで、変速時にギアの回転を合わせるシンクロを装備。ウイッシュボーンと柔らかなコイルスプリングで構成される、独立懸架式サスペンションが、フロントを支えた。
シリンダー数やシャシー長の違いでモデル展開を図るという、ベントレーとロールス・ロイスの合理化を体現したモデルでもあった。戦後には、MkVIやRタイプ、シルバーレイス、シルバードーンといったラインナップが形成されていった。
17台のMkVの内、7台が現存する。しかし、コーニッシュは市販に至らなかった。
パリのヴァンヴァーレン社がボディを成型
MkVのエンジンは、4257ccのオーバーヘッドバルブ直列6気筒。コーニッシュでは高圧縮化され、ハイリフトなカムが組まれ、最高出力172psへ軽くチューニングされた。2本出しのエグゾーストも特徴だった。
シャシー自体は、35台分が作られていた。ボディの架装されない18台分は廃棄処分になったが、1970年代まで、グレートブリテン島中部のクルーに構えた工場には、部品が保管されていたという。
コーニッシュの14-BV型シャシーは、薄いスチール材やマグネシウムを利用し軽量化。クロスレシオのトランスミッションには、オーバードライブが備わった。軽量なディスクホイールも、標準仕様の1つだった。
1939年2月にシャシーは完成。フランスで販売される、ロールス・ロイス用ボディの殆どを手掛けていたコーチビルダー、ヴァンヴァーレン社へ運ばれた。ピラーレスのスタイリッシュな造形や、特許を取得したボディのマウント方法が高く評価されていた。
スタイリングを担当したのは、パリの歯科医師だったジョルジュ・ポーラン氏。仕事の合間に、曲線美を描き出していた。
彼の作品として名高いのが、後にプジョーが特許を購入した、フォールディング・ハードトップ構造。ジュラルミン製ボディの流線型クーペ、エンビリコス・ベントレーも外すことはできないだろう。
エンビリコスは、公式に依頼された仕事ではなかったものの、ベントレーはジョルジュの仕事を高く評価。1940年代に、ブランドが進むべき方向性だと認知された。
歯科医師が描き出した曲線美のスタイリング
コーニッシュのボディは、ベントレーが正式に開発を推進。ロールス・ロイスの広報部門は、「特別なドライバーに適した、実用的な4シーター」だと紹介文をまとめている。
ベントレーのダービー工場に努めていた、イヴァン・エヴァーンデン氏が、歯科医師のポーランと協力してスタイリングを担当。流行の先端にあった、流線型のフォルムが描き出された。
2分割でV字型にレイアウトされたフロントガラスや、フェアリングの付いたヘッドライト、スパッツで覆われたリアタイヤ、カウリングの付いたラジエーターグリルなど、多くの特徴が与えられた。塗装色には、インペリアル・マルーンが選ばれた。
コーニッシュ・ボディの製作には、約5か月を要した。1939年6月にグレートブリテン島中部のダービーへ届けられると、ブルックランズ・サーキットでテスト走行。0-400mダッシュを19.8秒、最高速度は178km/hに達することが確認された。
完成したコーニッシュは、第二次大戦が始まる数か月前にGRA 270のナンバーで登録され、フランスとドイツ、イタリアを巡る耐久テストへ出発。50日間で走行距離を1万919kmへ伸ばした。
フランス南部のアルプス山脈では、ステルヴィオ峠とドロミティ峠を完走。ドイツのアウトバーンでは、160km/h以上の速度で15分走行したところ、タイヤのトレッド面が剥がれたという。2本のスペアタイヤが、役に立っている。
2度の事故に巻き込まれ、空爆で破壊
ところが、この耐久テストでは2度も事故に巻き込まれている。1度目は、1939年7月9日にバスが絡んだもの。2度目は8月で、道路へ侵入してきた別の車両を避けたことで、路肩の用水路へ突っ込んだものだった。
この事故で、運転席側のボディ側面とルーフを損傷。致命的なダメージではなかったようだが、14-BV型シャシーとコーニッシュ・ボディを分離し、修理が必要だと判断された。シャシーは英国のダービーへ、ボディはフランス中部のシャトールーへ運ばれた。
その後、1939年9月3日にドイツが宣戦布告。互いに連絡が取れない状況になり、1940年5月にコーニッシュのカギだけがダービーの工場へ届けられた。
添付されていた英国ロイヤル・オートモビル・クラブの書面には、ボディは空爆で破壊された可能性が高いと記されていた。ベントレー・コーニッシュは、不幸の歴史とともにフランスで葬り去られた。
当時の姿を確認できたのは、数枚の写真のみ。ロールス・ロイスは1970年代に2ドアクーペへコーニッシュという名を復活させるが、オリジナルの塗装色すら、正確な情報は残っていなかったという。
第二次大戦後のベントレー Rタイプ・コンチネンタルが、後年にクラシックカーとして価値を高めると、失われたコーニッシュに対する関心も上昇。WO.ベントレー記念財団を率いるケン・リー氏を筆頭とするマニアは、再現を夢見るようになっていった。
この続きは、ベントレーMkV コーニッシュ(2)にて。
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