F1が世界選手権として発足した1950年以降、160を超えるチーム(コンストラクターもしくはチーム名称)がグリッドを彩ってきた。
スクーデリア・フェラーリはF1発足当初から参戦を続け、マクラーレン・レーシングやウイリアムズ・レーシングなどの名門チームも残っている。現在のメルセデスAMG F1チームの元を辿れば、1970年のティレルまで遡ることができる。
■恐ろしいほど強かった……日本のファンが選ぶ「最強F1マシン」
現在は10チームが参戦しているF1だが、2025年からは新たにアンドレッティ・フォーミュラ・レーシングが加わる可能性が浮上している。
新規参戦チームを募っていたFIAは10月2日(火)、元F1ドライバーのマイケル・アンドレッティ率いるチームの参戦を承認。現在アンドレッティはアメリカ・インディアナ州に巨大ファクトリーを建設しており、今後のフォーミュラ・ワン・マネジメント(FOM)との商業権交渉次第では、11チーム目としてグリッドに並ぶこととなる。
参戦にも高いハードルが設けられるF1だが、“ピラニアクラブ”という別称が付けられるように、パフォーマンスや資金といった面でグリッドに留まることすら難しい。
実際、1993年から2023年の直近30年を見てみると、新規コンストラクターとして参入した12チームのうち実質的に生き残れたのはたった3チームなのだ。
今回は直近30年で新規参戦したF1コンストラクターを紹介する。
■ハース(2016-)
2016年に参戦を開始したアメリカ籍のハースF1チームは、既存チームの中で最も歴史が浅い。今年で参戦8年目を迎え、モナコGPでは通算150戦目を迎えた。このままいけば2025年にマーチとBRMの197戦を交わし、通算参戦数で歴代トップ20入りを果たすこととなる。
2016年の開幕戦オーストラリアGPではいきなりロマン・グロージャンが6位入賞を果たす活躍を見せたものの、これまではアップダウンの激しい8シーズンを過ごしてきた。
2019年にはタイトルスポンサーのリッチ・エナジーと契約問題で揉め、2021年にはロシアのウクライナ侵攻を受けてタイトルスポンサーを務めたウラルカリとの契約を破棄し、訴訟へ発展。ウラルカリのドミトリー・マゼピン会長を父に持つニキータ・マゼピンとのF1ドライバー契約も破棄することとなった。
資金難にあえいだハースだったが、Netflix「Drive to Survive(邦題:栄光のグランプリ)」が火を付けたF1ブームと予算制限の後押しもあり、F1グリッドに定着。今季はマネーグラムをタイトルスポンサーに迎えた。
ヴァージン/マルシャ/マノー・マルシャ/マノー(2010-2016)
現在の予算制限レギュレーションは2021年から施行が開始されたモノだが、それ以前にも予算制限をF1に導入しようという動きはあった。
2009年には予算上限を4000万ポンド(約72億円)とする計画が持ち出され、それを機に15チームが2010年から新規参戦に手を上げ3チームが実際にグリッドへ並ぶこととなった。
その中で名称とオーナーを変えながらも最も長く生き残ったのが、イギリスのマノー・モータスポーツを母体として参戦を開始したヴァージンだ。
2011年にはロシアのスポーツカーブランドであったマルシャにチーム株式の一部を売却し、名称はマルシャ・ヴァージンに変更され、チーム国籍もイギリスからロシアへ。2012年にはマルシャF1チームへと名称が変更された。ただ、2015年には再びマノーの名前が復活し、その翌年にはマノー・レーシングとなった。
ただ7シーズンを通して、資金難を振り払えず。破産状態となったチームは買い手を見つけられず終焉を迎えた。
ヴァージンとして始まり、マノーとして終わるまでの7年間で、チームの入賞記録は2回。ひとつが2014年モナコGPでジュール・ビアンキが記録した9位、もう1回が2016年にオーストリアGPでパスカル・ウェーレインが記録した10位だった。
ロータス/チーム・ロータス/ケータハム(2010-2014)
2010年から新規参戦を開始したロータス・レーシングだが、コーリン・チャップマンが率いた往年のF1チームとは別モノだ。
2011年にはチーム・ロータスと名称を改めたが、“元祖”ロータスとの関係が悪化し、訴訟問題に発展。2012年からは傘下のケータハムとして2シーズンに渡って参戦した。
2014年には小林可夢偉とマーカス・エリクソンのふたりをレギュラードライバーに抱えたが、チームが管財人の元に置かれるようになって以降のアメリカGPとブラジルGPの2戦を欠場。最終戦アブダビGPはファンから資金提供を募り参戦へこぎつけた。
ただチームの買い手は見つからず、2014年限りでの撤退となった。
HRT F1(2010-2013)
HRT F1は2010年に新たに加わったもう1チームであるHRT F1。2010年はダラーラにマシン製造を委託したが、急ごしらえのF1マシンはパフォーマンス不足に苛まれた。この年はカルン・チャンドックとクリスチャン・クリエンに加え、山本左近もマシンをドライブした。
2年目の2011年には当時レッドブル育成だったダニエル・リカルドがシーズン途中からF1デビュー。当時のカーナンバーは22番。奇しくも今年アルファタウリでチームメイトを組む角田裕毅と同じナンバーだ。
2012年もHRTは苦境から抜け出せず。開幕戦オーストラリアGPではペドロ・デ・ラ・ロサとナレイン・カーティケヤンが107%ルールに抵触し、予選落ちを喫した。
HRTは2012年末に身売りが決まったものの、こちらも買い手は現れず。2010年参戦チームの中では最も短命の3シーズンで幕切れとなった。
スーパーアグリ(2006-2008)
元F1ドライバーの鈴木亜久里が立ち上げたスーパーアグリは、“オールジャパン”を掲げて2006年からF1参戦を開始。ホンダの支援を受け、佐藤琢磨と井出有治のふたりをラインナップに加えたが、処女作となるSA05は4年落ちのアロウズA23をベースにした急造マシンであったため、十分なパフォーマンスを発揮できなかった。なお、シーズン途中からオリジナル設計のSA06が投入された。
2007年はホンダとの共同開発でSA07を投入。この年のカナダGPでは佐藤が当時マクラーレンのフェルナンド・アロンソ(現アストンマーチン)をオーバーテイクして6位入賞を果たした。
ただ、慢性的な資金不足とスポンサー料未払いやチーム売却案の白紙化、といった問題が重なり、2008年トルコGPを前に撤退を発表した。
トヨタ(2002-2009)
トヨタは2002年からF1参戦を開始。十分なインフラや人材を整えることに時間を要したものの、潤沢な資金力を武器に4年目の2005年にはヤルノ・トゥルーリがマレーシアGPで初表彰台をチームに届け、ポールポジションも2度記録した。
この年のコンストラクターズランキングは4位だったが、続く2006年と2007年は6位、2008年は5位ともう一歩高みへ登ることができなかった。
2009年はトゥルーリとティモ・グロックのコンビでポールポジション1回、表彰台5回をマーク。最終2戦では小林可夢偉がF1デビューを果たしアブダビGPで6位入賞を果たした。
ただ、トヨタは2008年のリーマンショックの影響を受け、2008年限りでF1から完全撤退となった。3回のポールポジション、13回の表彰台獲得を記録し、日本籍のチームとしての出走回数はホンダの88回を上回り最多の139回となっているのの、優勝には手が届かなかった。
なお、トヨタが2010年シーズン用に開発したマシン『TF110』を譲り受けてステファンGPというチームが新規参戦を目指したものの、実現せずに終わった。
スチュワート・グランプリ/ジャガー/レッドブル(1997-)
3度のF1チャンピオンであるジャッキー・スチュワートとその息子ポール・スチュワートによって設立されたスチュワート・グランプリ。大元となったのはポール・スチュワートが興したポール・スチュワート・レーシングだ。
本拠点をイギリス・ミルトンキーンズに置き、ジャッキー・スチュワートと縁が深いフォード・コスワースからエンジン供給を受け、大口スポンサーの獲得にも成功した。
参戦初年度となる1997年にはリタイアが頻発したものの、雨のモナコGPでルーベンス・バリチェロがいきなり2位表彰台を獲得した。
翌年は鳴かず飛ばずのシーズンを送ることとなったものの、バリチェロに加えてベテランのジョニー・ハーバートを迎えた1999年にはマシン戦闘力も向上。バリチェロがフランスGPでチーム初のポールポジションを獲得すると、ヨーロッパGPではハーバートが初優勝を届けた。どちらも雨混じりのセッションだった。
フォードは参戦3年目にしてコンストラクターズランキング4位獲得という急成長を見せたスチュワート・グランプリを買収し、2000年から傘下ブランドのジャガーとしてF1へ参戦した。
2001年のモナコGPと2002年のイタリアGPでエディー・アーバインが3位表彰台を獲得したものの、スチュワート・グランプリ時代の輝きは放てず、フォードでの内紛と業績不振によって、F1チームは2004年にレッドブルへ売却された。
そのレッドブルは2023年の日本GPで6度目のコンストラクターズタイトル獲得を達成。ドライバーズチャンピオンもふたり輩出している。
ローラ(1997)
名門レーシングマシンコンストラクターであるローラは、一度F1に参戦を試みた時期があった。
ローラは1998年からのF1参戦を目指したものの、タイトルスポンサーを務めたマスターカードの意向により急きょ1年前倒しでの参戦を余儀なくされた。加えてローラのシャシーはフォード製V8エンジンを想定して作られておらず、供給されたエンジンも型落ちという有様だった。
十分な準備ができないまま開幕戦オーストラリアGPを迎えた結果、ヴィンチェンツォ・ソスピリとリカルド・ロセットのふたりは予選落ち。参戦資金も枯渇したため、第2戦ブラジルGPの直前に撤退……結果として、決勝レースを一度も走ることなくF1から姿を消すこととなった。
■フォルティ(1995-1996)
イタリアF3や国際F3000で活躍したフォルティは、1995年からF1に進出。実質的には、国際F3000のチームでドライバーを務め、実業家を父に持つペドロ・ディニスがF1へ昇格するために結成されたF1チームだった。
ただ、ディニスが1996年にリジェへ移籍すると、フォルティは資金難に。予選落ちも続き、シーズン途中での撤退を余儀なくされた。
シムテック(1994-1995)
空力エンジニアのニック・ワースが設立し、マシン設計依頼を請け負ってきたシムテック。彼らはMTVをタイトルスポンサーに迎え、デビッド・ブラバムとローランド・ラッツェンバーガーというコンビで1994年シーズンのF1開幕を迎えた。
しかし、第3戦のサンマリノGP予選でラッツェンバーガーが事故死。同レースではウイリアムズのアイルトン・セナも命を落とした。その後シムテックは資金難に陥り、井上隆智穂をはじめとする資金力のあるドライバーを乗せることで苦難をしのいだ。
ただ、翌年も苦しい台所事情は変わらず。この年シムテックからF1参戦を果たす予定だった野田英樹は第6戦カナダGPからの参戦を予定していたものの、チームは第5戦モナコGPを最後に撤退した。
■パシフィック(1994-1995)
1994年からF1に参戦したパシフィックもイギリスF3や国際F3000などで活躍していたチーム。初号機のPR01は、1991年にF1参戦を狙って開発が行なわれていたレイナードのシャシーを流用し、エンジンも型落ちのイルモア製V10と戦闘力を欠いた。
1995年には資金注入が行なわれるも、資金難は変わらず。最終戦のオーストラリアGPを最後に撤退となった。
ザウバー/BMWザウバー/ザウバー/アルファロメオ(1993-)
ペーター・ザウバーが1970年に立ち上げたザウバー・モータースポーツAG。1993年からF1での挑戦を続ける中で、チームはこれまでメルセデスやBMW、アルファロメオなど複数の自動車メーカーと提携を結んできた。そして2026年からはアウディのワークスチームになる。
ザウバーのF1参戦は最初のF1マシンC12のカウルに”コンセプト・バイ・メルセデス”の文字が入れられていることからも分かる通り、メルセデスのF1参戦に先駆けてのF1プログラム立ち上げだったものの、パートナーシップは翌1994年限りで解消となっている。
2006年からは買収に伴いBMWワークスに。F1.08を投入した2008年シーズンには、参戦3年目のロバート・クビサがカナダGPでチーム初優勝を挙げた。チームメイトのハイドフェルドも2位に入り、ワンツーでの勝利となった。
クビサのF1タイトルが狙える位置につけていたものの、チームはマシン開発の焦点を新レギュレーションが導入される翌2009年へ向けて早々にスイッチ。しかし2009年7月にBMWは、その年限りでF1から撤退することを発表……チーム所有権は再びペーター・ザウバーの元へ戻った。
2012年は当たり年となり、セルジオ・ペレス(現レッドブル)が雨のマレーシアGPで奮闘し2位表彰台を掴んだり、小林がジェンソン・バトン(マクラーレン)を抑え込み母国日本で3位表彰台を獲得したりと、C31はチームの歴史の中でも指折りのマシンとなった。シーズンで計4回の表彰台獲得によりコンストラクターズランキング6位となった。
しかし翌年以降チームは低迷。2016年には現在の所有者となるスイスのロングボウ・ファイナンス(現在のイスレロ)に売却された。
なお現在のザウバーは、2019年から前年タイトルスポンサーを務めたアルファロメオがネーミングライツを取得し、”アルファロメオF1チーム”としてF1に参戦している。ただアルファロメオとの契約は2023年末までとなっており、2024年と2025年の2シーズンをザウバーとして戦った後、F1に新パワーユニット規定が導入される2026年から、新規参戦のアウディのワークスチームとしてグリッドに並ぶこととなっている。
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