夕方5時。秋も深まり、ドイツもだいぶ日が短くなってきました。筆者の住むベルリンは、ドイツの中でもかなり北に位置しているので、南部と比べるとよりいっそう日が落ちるのが早いな、と感じます。その日が落ちるかどうかの時間帯、ベルリンでは外を出歩く人がにわかに増えます。
仕事帰りの人や、散歩をしている人、犬を散歩させたり、子どもの出迎えをしている人など。ドイツ人は仕事を集中して進め、残業することを嫌うので、天気の良い日などは早々に仕事を切り上げ、夕方には外に出て家族や友人と散歩を楽しむことも多いのです。この日は特に夕日が美しく、筆者も陽気につられて散歩をしていたところ、Hナンバーを掲げた端正なデザインのクーペが目に飛び込んできました。旧西ドイツを代表する大衆車のひとつ、オペル・カデットBです。
蹄鉄は幸運の象徴!フロントに蹄鉄を掲げたHナンバーのメルセデス・ベンツS123型
オペルのクルマには軍人の序列由来の車名が存在する?
クルマのネーミングには数字のみ、花の名前、地名、動物の名前などいろいろなものがありますが、オペルのいくつかの車種は非常に特徴的な車名が付けられています。カデット(Kadett)はドイツ語で「士官候補生」という意味で、オペルには他にもカピテーン(Kapitän)=「艦長」、アドミラル(Admiral)=「提督」といった、海軍軍人の序列や職位をあらわす名称が付けられたクルマが存在します。カデット、カピテーン、アドミラルの3車種は、ドイツが1930年代の軍事国家然とした時期に登場しており、当時の国情が伺えますね。ちなみに当時、オペルはドイツの自動車会社で最大のシェアを誇っていました。
初代カデットが登場したのは1936年。ナチス政権のもと、フェルディナント・ポルシェ博士によって開発が進められていたフォルクスワーゲン(以下VW)タイプ1に対するライバルとして、VWタイプ1の登場よりも先に市場に送り込まれました。1940年の第二次世界大戦勃発に伴い、オペルの工場はドイツ政府に接収され、初代カデットの生産は打ち切られることになります。結局、カデットの名前が復活したのは1962年ことでした。初代カデットの生産終了から22年ぶりに、2代目であるカデットAが登場します。
「打倒!フォルクスワーゲン・タイプ1」を目指して開発
当時、ドイツの自動車市場を席巻していたのはVWタイプ1でしたが、カデットAはそれに対して真っ向勝負を挑みます。空冷エンジンよりも静かで燃費に優れた水冷エンジンを搭載し、生産性を考慮して大型プレス材で組まれたフルモノコック構造の車体は、VWタイプ1に比べてより良い視界と大きな荷室を備えていました。油圧式のドラムブレーキは弱い踏力でも十分な制動力を発揮し、運転のしやすさと高い実用性が評価されて、カデットAは1965年の生産終了までに65万台近くを生産するヒットモデルとなったのです。
ヨーロッパではヒット作が生まれると、モデルチェンジをせずに長く作られることが多いですが、カデットAは約3年で生産終了し、3代目のカデットBに移行します。かつてのドイツのベーシックカーはカデットAを含めほとんどが2ドアモデルのみの設定で、フランス車のような4ドアモデルはほとんど存在していませんでしたが、この頃になると4ドアの使い勝手の良さが評価され、市場の要望に対して応えたのがカデットBです。カデットBのデザインは先代モデルの流れを汲んでほとんど変化はないものの、4ドアモデルに2ドアモデル、ワゴンモデルが用意されていました。
かつての大ヒット車も、今では希少車の仲間入り
ここにご紹介した個体は、先代に先祖帰りした2ドアのクーペモデルですね。Hナンバーが誇らしげです。ところどころに凹みが見受けられるものの、クリーム・ホワイトの塗装も含めて全体的に綺麗なコンディションが保たれています。1965年にはエンジンを強化したスポーツ・クーペ「ラリー・カデット」が登場し、ラリーのレースカーを彷彿とさせるつや消し黒に塗装されたボンネットやキャップなしのホイール、サイドのストライプ等のデザインはのちの小型大衆車のスポーティモデルに大きな影響を与えました。この個体はラリー・カデットではない「素」のモデルですが、非常にシンプルで抑揚の少ないクリーンなデザインは、空力優先のデザインが一般的になった現代においても、とても魅力的に映ります。
カデットBは1972年、ついにVWタイプ1を販売数で上回り、旧西ドイツのベストセラー第1位の座を獲得。長年の悲願を達成します。VWタイプ1はモデル末期を迎えて販売が低迷していた、という事実もありましたが、兄弟車のオペル・オリンピアAと合計で1973年までに270万台以上を生産し、オペルでもっとも成功したクルマとなりました。
それだけ多くの数が作られたカデットBですが、VWタイプ1を日常的に見かけることとは対照的に、現在のドイツではほとんど見かけません。むしろ、フランス産のルノー4やシトロエン2CV、イタリア産のフィアット500、イギリス産のミニといった、他のヨーロッパ各国のベーシックカーが数多く走っています。そういったクルマに比べると地味で影の薄いカデットBですが、シンプルで美しいデザインと堅実で簡潔なドライブトレインやサスペンションなどのメカニズム、VWタイプ1を販売数で打倒したという点を考慮すると、もう少し注目を集めても良いのでは?と思います。現在走行可能なカデットBはドイツ本国でどのくらい残っているのでしょうか。願わくは、いつまでも元気に走り回る姿を見続けたいですね!
[ライター・カメラ/守屋健]
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