エイドリアン・ニューウェイが、来季からアストンマーティンF1に加入することが発表された。ニューウェイはレーシングカーデザイナーとして複数のチームで後に名車と呼ばれるマシンを手がけ、ドライバーズタイトル、コンストラクターズタイトルをそれぞれ10回以上獲得しているという、まさに“優勝請負人”。その影響力は未だに大きく、新天地での手腕にも大いに注目が集まる。
ニューウェイがキャリア初期に手掛けたマーチ881は、チャンピオンはおろか優勝も記録しておらず、自身がデザインした錚々たる名車のラインアップからすれば、実績面で見劣りする。しかしこのマシンは空力面のトレンドを先取りした意欲作であり、彼にとっても思い出深い一台。彼は2010年、motorsport.comの姉妹誌である『Autosport』のインタビューの中でその製作秘話を語っていた。
■“一応”優勝はしたけど……決して「速くはなかった」F1マシン10選
1987年の夏、ニューウェイはF1復帰を果たしたマーチのテクニカルディレクターとして、イギリスのビスターにあるファクトリーの門を叩いた。彼は後に“レイトンハウス・レーシング”と呼ばれることになるこのチームでの日々が、後のタイトル獲得の礎になったと考えている。
マーチのF1復帰初年度のマシン『871』はF3000マシンのツギハギに過ぎないデザインであったが、シーズン後半からニューウェイは翌1988年シーズンを戦う881のデザインに専念した。このマシンは、同年に16戦15勝を記録したマクラーレン・ホンダMP4/4よりもはるかにエポックメイキング(革新)的なマシンであり、特にエアロダイナミクスという点では一線を画していた。
ニューウェイは881の設計思想についてこう語る。
「ターボチャージャーを搭載したマシンの方がはるかにパワーがあったため、我々の設計の原則としてエアロダイナミクスに重点を置き、機械系はそれに合わせる形で組み込んでいった。当時は基本的にメカニカル面から設計され、それに空力面をフィットさせるような形がとられるのが主流だったのだ」
「非常にアグレッシブで、F1では見たことのないような特徴を持ったマシンだった。ノーズを持ち上げるようなデザインもこれが初めてだったし、フロントとリヤの翼端版が適切に造形された最初のマシンとも言えた。また、ディフューザーも先進的だった」
「F1のデザインの方向性を変えたと言っても過言ではないだろう。あまり言いたくはないが、トレンドを作ったのだ。確かに空力効率は他のどのマシンよりも高かった」
しかしながら、あまりにも空力効率を追い求めたマシンだったため、ドライバーにとっては窮屈で乗りにくいマシンだったという。当時のドライバーであるイワン・カペリによると、ステアリングホイールは25cmしかなく、バルクヘッドに向けて足を通すスペースもわずか25cmだったという。その中に3つのペダルが格納されていてフットレストもなく、「コーナーによっては問題があった」とカペリは言う。
カペリはさらにこんなエピソードも披露した。
「初めて乗った時、シフトレバーが遠くにあり過ぎて届かなかった。するとエイドリアンが『そこで待ってろ』と言ってレバーを外すと、何やらガレージの奥からハンマーで叩く音が聞こえてきた。彼はレバーを手前側にひん曲げて戻ってきたんだ!」
ただカペリもテストの段階から、多少の窮屈さには目をつぶれるほどマシンに速さがあると感じており、「少し不快でも(1周)0.5秒速くなると言われたら、答えは簡単だよね」と話している。
その他にも逸話はある。カペリはシルバーストンでのテストの際、高速の1コーナー(当時)であるコプスをアクセル全開で、シフトダウンのみで駆け抜けたと言い、ブラジルGPでは元F1ドライバーのカルロス・ロイテマンが、1コーナーに飛び込んでいくマシンのあまりの速さに驚き、誰が運転しているのかガレージまで確かめに来たという。
シーズン開幕後、881の速さが際立ったのはやはりシルバーストンだった。イギリスGPではカペリとマウリシオ・グージェルミンがグリッド3列目に陣取り、決勝ではカペリがリタイアしたもののグージェルミンが4位に入った。その後もチームはコンスタントに上位を走り、ポルトガルではカペリがマクラーレン・ホンダのアラン・プロストに肉薄して2位。日本GPではカペリが一時トップを走るシーンもあった。
Autosportの元編集長であり、レイトンハウス・マーチで監督も務めたイアン・フィリップスは、881でニューウェイを勝たせることができなかったと悔やんでおり、ニューウェイのマシンが勝つたびに心が痛むと話していた。ニューウェイも881が勝てるポテンシャルを持っていたことに同意するが、決してチームを恨んだりはしていない。
「もしウイリアムズが881を走らせ、そこにナイジェル・マンセルが乗っていたら、レースに勝っていただろうね」とニューウェイは言う。
「でも当時のチームはそういった位置にいなかった」
翌1989年、チームはニューマシンCG891を投入したが、881のような輝きを見せることはなかった。この年は881で走った開幕戦でグージェルミンが3位に入ったが、CG891が投入されてからは一度も入賞を記録することができなかった。このマシンは先代からの正常進化系であったが、風洞では良いデータが出ていたものの、コース上での結果に繋がらなかった。
「それは主に空力的な問題だった」
ニューウェイはそう振り返る。
「最初はギヤボックスの問題もあったが、それが解決してからもマシンは881ほど安定しなかった」
「1990年の最初に風洞そのものを見直したところ、フロアが湾曲してしまっており、完全に誤った測定結果を出してしまっていたことが分かった。我々は誤った方向に進んでいたのだ」
風洞の問題により、1989年と1990年の前半を棒に振る形となったレイトンハウス。特に1990年の前半はコースによっては予選落ちするほどだったが、改良型のフロアとディフューザーが投入されたことにより、フランスGPでは優勝争いに絡むまでに復活を遂げた。終盤までトップを走っていたカペリは燃圧低下でプロストに優勝を譲ったが、それでも2位に食い込んだ。
しかし悲しいことに、レイトンハウスがこれ以上の輝きを見せることはなかった。当時、マーチを買収したレイトンハウスのオーナー赤城明氏の資金繰りも厳しくなっており、やがて会計士のサイモン・キーブルがチームに加わり、病気療養中だったフィリップスに代わって主に予算削減を行なっていた。ニューウェイは「もしF1チームの運営に決して手を出してはいけない人間がいるとすれば、それは会計士だろうね!」と話している。
またニューウェイは、自身が「競争力があるとは到底思えない」と感じていたポルシェエンジンを使いたがっていた赤城と意見が合わず。1991年に向けイルモアにエンジン製作を依頼したことで赤城の逆鱗に触れ、そこからは関係が悪化してしまったという。
そんなニューウェイにはアロウズからの高額オファーも来ていたが、ウイリアムズのチーフデザイナーとなることを決意。1990年のシーズン途中にレイトンハウスを去ったため、厳密にはポールリカールでのカペリの勇姿を見届けてはいないが、十分すぎる置き土産であった。
レイトンハウス・マーチでの日々が自身の礎となった理由について、ニューウェイはこう説明している。
「私が規模の大きいチームにそのまま入っていたら、既存のデザイングループの中で自分の立ち位置を確立しようとしていただろう」
「経験の浅いグループの中で、先入観を持たずに物事を進められたのは素晴らしいことだった。我々は直感と判断力、そして風洞での実験結果を頼りにした」
「チームが衰退していく様を見るのは悲しかった。チームに資金が残っていて、イアンが率い続けていたら、本当に何か成し遂げられたかもしれない。私が(新興チームだった)レッドブルに行ったのも、レイトンハウスでやり残したことがあったという感覚が大きかったんだ」
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