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【特別寄稿】2012年日本GP3位表彰台直後の可夢偉ザウバーシート喪失。今だから明かせるマネージャーのF1契約秘話

【特別寄稿】2012年日本GP3位表彰台直後の可夢偉ザウバーシート喪失。今だから明かせるマネージャーのF1契約秘話

 自動車レースの最高峰であるF1世界選手権。2012年10月に鈴鹿で行なわれた日本グランプリにおいて、小林可夢偉は鈴木亜久里(1990年)、佐藤琢磨(2004年)に続き日本人として3人目となる3位表彰台を獲得した。

 レース終盤、迫りくる世界王者ジェンソン・バトンをおさえて、実力でもぎ取った興奮の展開に鈴鹿は揺れ、日本中がわいた。

カルテンボーン「可夢偉は偉大なファイターです」

 ところが、所属チームのザウバーはこの12年シーズン限りで可夢偉を放出。その速さがパドックで高い評価を得ていたにもかかわらず、可夢偉は突如F1のシートを失ってしまった。

 あの年、あの歓喜の日本GPのあと、いったい可夢偉の身に何が起こっていたのか? autosport本誌No.1532の特集では、当時の内情を可夢偉のマネージャーを務める船田力氏が自ら明かしている。ザウバーのシート喪失、『KAMUI SUPPORT』の発足経緯、ケータハムでのF1復帰(14年)に至るまで、いまだから明かせる真実とは──

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「なぁ、俺らは絶対大丈夫やって!!」

 2012年12月8日午後7時過ぎ、都内を走るタクシーのなかで、後部座席の隣りに座る可夢偉が、こちらに身を乗り出しながら力強く言った。

 ふたりともダウンジャケットを着ていて、暖房が効いた車内は暑かったが、お互い脱ごうともせず後部座席が窮屈に感じたことを思い出す。私がどんな言葉を返したか覚えていないが、可夢偉が発した言葉だけはいまでもはっきりと覚えている。

 この日からさかのぼること2週間。日本から地球の真裏にあるブラジル・サンパウロで、2012年F1最終戦ブラジルGPが開催された。

 アメリカGPからの連戦だったため、可夢偉と私は火曜日にサンパウロ入り。その翌日水曜日の昼過ぎからメディア対応が始まり、可夢偉は宿泊先のホテルのテラスで英国テレビ局の取材を受けた。私もテレビクルーの脇からインタビューの様子を見守り、インタビューが終わってそれぞれの部屋に戻ろうとすると、当時のザウバーのチーム代表、モニシャ・カルテンボーンが可夢偉と私に声をかけた。

「ちょっと話があるの。ふたりに」という彼女の表情と、わざわざ「ふたりに」と声をかけてきた時点で、いよいよ“あの話かな”と覚悟した。

木製でオレンジ色に塗られた大きめの丸テーブルを3人で囲み「金曜日にエステバン(グティエレス)の採用を発表することになった……」とモニシャは話し始めた。この言葉は来季のザウバーに可夢偉のシートがないことを意味していた。モニシャのその言葉を聞いてから、私は可夢偉がどう返事をするのか瞬間的にとても気になった。

「大丈夫。分かった。というか、分かっていたしね。ありがとう」

 これが可夢偉の返事だった。

表情は笑っていたが、その笑顔が自然と出たものなのか、作り笑いだったのか分からない。別れ際にモニシャは「来年、何があってもいいように準備はしておいて」と付け加えてきたが、その言葉はどこまで可夢偉に届いていただろうか。

ふたりでエレベーターに乗ってお互いの部屋に帰るが、正直、私は言葉が詰まって彼にうまく声をかけることができなかった。

■F1シート獲得のために集った「1万人以上」の可夢偉サポーター

 可夢偉自身、2012年のシーズン中から、ザウバーのシートを失う流れは感じ取っていた。もともとザウバーとの契約延長の期限は、F1が夏休み中だった8月31日に設定されていた。しかし可夢偉の去就に関して、話はまとまらないまま期限をすぎてシーズン後半戦が始まり、9月のイタリアGP後にはチームメイトのセルジオ・ペレスのマクラーレンへの移籍が決まった。

 ご存じのとおり、ペレスは米国フォーブス社が発表する世界億万長者ランキングで2010年から連続世界一を獲得しているメキシコの実業家、カルロス・スリムが所有する大手通信企業『テルメックス』が支援するドライバープログラム出身。

 その彼を起用することでチームに莫大なメキシコマネーが持ち込まれていた。大口スポンサーを持たないチームにとってもメキシコマネーは必要不可欠なものだった。

 テルメックス側は13年以降もチームを継続支援するかわりに、ペレスと同じプログラム出身で、当時テストドライバーだったエステバン・グティエレスの昇格を求めていた。両者の関係は相思相愛で、グティエレスのレギュラードライバー起用は既定路線だった。

 ザウバー在籍期間中、可夢偉もチームの状況は充分理解していたので、スポンサー探しに奔走していたが、当時は震災からの復興や東京オリンピック誘致に向けて各企業が協賛金の使い道をシフトしていたタイミング。新規の案件、さらにF1規模のスポンサーフィーを募るのは至難の技だった。

 ザウバーは、可夢偉が日本GPで表彰台を獲得した翌週に行なわれた韓国GP後に「2013年はニコ・ヒュルケンベルグが加入する」ことを内定。この時点でザウバー継続の道は事実上途絶えてしまう。

 ただ、この頃とある代理店から“ザウバーで可夢偉が走るのであれば”という条件でチームのタイトルスポンサーとして支援してくれる日本企業の話が持ち込まれた。

 この企業は過去にF1チームのスポンサーを務めた実績があり、インドGPでその詳細を具体的に聞いたが、インドGP後に発表されるヒュルケンベルグと、まだ発表されていないとはいえグティエレスが昇格確実のザウバーで、可夢偉が走れる可能性はないため、この支援策を可夢偉が他のチームに走るために切り替えていただけないかお願いした。

 一方、このインド‐アブダビ連戦の後、日本に戻ってからKAMUI SUPPORTを立ち上げることになった。このKAMUI SUPPORTはもともと可夢偉のアイデアで、私は最後まで反対していた。

 その理由はいくつかあった。ファンからお金を直接受け取る=よりダイレクトな関係になるため、大きな責任を背負うことになること。当然、これまで以上にその動向が注目を集めることになり、必要以上にいろいろと詮索されてしまうかもしれないこと。そして、なによりもまだ26歳(当時)という年齢で、この先、一生責任を負う可能性があることも反対の理由だった。

 いまでこそクラウドファンディングなど全世界で当たり前になっているが、当時は誰にとっても未知の領域であり、ただでさえ小心者の私にとっては不安しかなかった。

 可夢偉とはこの件で日本でも海外でも侃々諤々やりあった。インドGP後のホテルでは夕食中もかなり激しく議論したが、最後は彼の「絶対大丈夫だから」というひと言に押されて始めることとなった。

 おかげさまで、KAMUI SUPPORTは1万人を超える方々にご協力をいただいた。昼夜を問わず5分間で20件、多いときは30件と協力してくださるファンの数が増えていった。

 私はKAMUI SUPPORTの状況や届いたメールを随時確認していて、可夢偉もレースウイークエンドにはミーティングを終えて控え室に戻ってくるとまず「どんな感じ?」と真っ先に尋ねてきた。

 じつは、後にこのKAMUI SUPPORTに募金していただいたファンの方々の“総数”が可夢偉のF1復帰の決め手となった。

 2013年末、ケータハムとの話が進み、可夢偉はロンドンでチームオーナー、トニー・フェルナンデスと最終面談の機会を得た。その面談でフェルナンデスの一番の関心は、いったい何名のファンが可夢偉に募金をしてくれたかだった。

「1万人以上」という人数を聞いたフェルナンデスは「それだけ大勢のファンは裏切れないね」と、その場で可夢偉の起用を決めた。

 面談後、この話を可夢偉から聞いた私は、KAMUI SUPPORTに協力してくれたファンの力をあらためて感じた一方、その思いに応えることができたことに安堵した。

■9億円でも「届かなかった」。可夢偉と船田マネージャーのスポンサー獲得活動

 話を2012年シーズンに戻すと、ザウバーの可能性が完全に途絶えたことを知ったのは、モニシャから聞くその前のレース、アメリカGPのレース後だった。レース後恒例の関係者パーティーの会場で、グティエレスの母が悪気はなかったと思うが、可夢偉に「息子が契約できた」旨を報告してくれたのだ。

 ブラジルGPの土曜日夜、可夢偉と私はレンタカーでサンパウロ市内をドライブした。そのときおもむろにクルマを道路脇に寄せた可夢偉は、タイトルスポンサーの話を持ってきてくれた代理店に自ら直接連絡した。

 そこで担当者と話をすることができたものの、じつはここ1週間以上“例の日本企業”と連絡がついていなかったという事実が発覚した。

「なんやねん。全然この話あかんやろ」

 電話を切った瞬間の可夢偉はさすがに怒り心頭だった。その後、ホテルの部屋に戻ると、私はひたすらKAMUI SUPPORTの状況を確認するしかなかった。

 日曜日、決勝レース。レース途中からの雨に「ウエットタイヤに換えたい!!」と可夢偉は訴えたが、チームからは「あと1周」の指示。結局この指示ミスで雨足が強くなり最終コーナーでコースオフ。

 さらにピット作業でも遅れ、表彰台を逃してしまった。なんともこのシーズンのザウバーと可夢偉を象徴するような噛み合わないレースになってしまった。

 レース後は大急ぎでパッキング。パドックと駐車場は4階分ほどの階段を上り下りしなければならず、シーズン最終戦ということもあっていつもの倍以上の荷物を持って何度か往復をした。

 そのあいだに、ザウバー在籍中の3年間にお世話になったフィジオのヨセフ・レベラーにヘルメットをプレゼント。さらにペレスともヘルメット交換をした。そしてパドックを去るとき、ペーター・ザウバーから「チームの事情を分かってほしい」と言葉をかけられた。

 ホテルに戻ってYouTube用のコメント動画を撮影・アップしたあと、すぐに出発。チームには空港に向かうと伝えていたが、道中にあるホテルに寄って、フォースインディアの首脳陣とミーティングをした。

 そこで提示された必要持参金は10~15ミリオンポンド(当時のレートで約15~23億円)。イギリス系チームはポンド払いで、レートがユーロよりも高い。

 さらにTMGの風洞を使えたら「持参金をバーゲンできるかもしれない」という提案があったが、じつはフォースインディアはすでにTMGの風洞を使っていたうえに使用料の未払いが発生しており、それを支払わずに済ませたいという思惑があったようだ。

 このホテルには同時に交渉していたロータス(現在のルノー)も宿泊していて、当初フォースインディアとの打ち合わせで使おうと思っていたレストランに、ロータスの交渉窓口の人物が来てしまうというハプニングがあったため、レストランから見えないエレベーターホールで互いに膝を突き合わせて話をした。

 日本に帰国後、可夢偉と私は真っ先にタイトルスポンサーを申し出てくれていた企業のオフィスへ向かった。虎ノ門にあるビルの一室だったが、結局担当者が日本にはいないということで会えず、この話は雲消霧散した。

■可夢偉的「大丈夫」の意味と強さ。ポジティブシンキングがつなぐ未来

 その後は朝から企業訪問や、企業を紹介してくれるという知人や知人の知人といった方々とのミーティング、夜はヨーロッパと連絡という日々が続いた。

 このあいだに「私、ユニクロ知っています」とか「ソフトバンクなら知り合いだよ」という人たちが何人も出てきた。実際に支援を名乗り出てくれた企業との出会いもあり、冒頭のタクシーのシーンはその打ち合わせにいく道中だった。そして、我々が最終的にチーム側に提示した持ち込み金額は9億円。それでも届かなかった──。

 現在、可夢偉はトヨタ自動車から世界耐久選手権とスーパーフォーミュラに参戦する一方で、キャデラックでデイトナ24時間を2連覇し、メルセデスのGT3マシンで耐久レースに参戦。さらにBMWのDTMマシンでスーパーGTとの特別交流戦に参戦し、トヨタ、ホンダ、ニッサンといった日本メーカーを相手に戦うなど、メーカーという枠にとらわれない唯一無二のレーシングドライバーとして活躍している。

 それが初めての自動車メーカー、初めてのコース、初めてのクルマであっても、レースのオファーであれば「大丈夫」とできるだけ答えようとするのが可夢偉のスタンスだ。おかげさまで私もさまざまな自動車メーカー、チーム、シリーズとの仕事ができている。

 先日、姉妹誌『F1速報30周年記念号』で可夢偉×中嶋一貴の対談があった。当時を振り返り、可夢偉は「僕が人間的にもっと大人で、どうやって生き残るか? という力があったら生き残れていたと思うけど、後悔もしていない」と語っていた。私自身もっとうまく立ち回れたこともあると感じているけれども、当時としては全力で取り組んでいたので後悔はない。

 私は可夢偉と仕事をするようになって10年経つが、どんな逆境でも彼は決して弱音を吐かず「大丈夫」と言ってきた。可夢偉にとって「大丈夫」の3文字は、覚悟を決めたときの言葉なのかもしれない。

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 この記事が掲載されているautosport本誌 No.1532では、佐藤琢磨の2012年インディ500(最終周のターン1でクラッシュ)直後に起きたこと、トヨタF1の撤退発表直前にTMGと可夢偉が何を思い、どう動いていたかなど“いまだから明かせるエピソード”を多数掲載している。レース人生の岐路に立たされたとき、ドライバーたちがいかに活路を見出してきたのか? 特集内容の詳細と購入は三栄のオンラインサイトまで。


船田 力 Chikara Funada
1999年、弊社の前身である三栄書房に『F1レーシング日本版』のアルバイトとして勤務。その後、三栄書房の契約社員となり『アズエフ』編集者としてキャリアをスタート。2004年からは『F1速報』副編集長、2006年より同誌編集長に就任し、グランプリの現場で精力的に取材活動を行なった。2009年からは本誌『オートスポーツ』副編集長を務めるなど、モータースポーツ雑誌の編集者として幅広く活躍。同年に退社・独立してからは小林可夢偉のマネジメント業務を担う。F1をはじめWEC/ル・マン24時間やIMSA、国内ではスーパーフォーミュラやスーパーGT(2018年)など可夢偉のさまざまなレース活動を支えている。




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