生まれる時期を間違えた? 影の薄いSUVたち
市場に早く出ることは、必ずしも良いとは限らない。
2022年現在、SUVは街角に溢れているが、このボディスタイルが台頭したのは比較的最近のことである。今のような人気を集める前に発売されたSUVの多くは、ほぼ完全に忘れ去られているか、あるいは後塵を拝した存在として不名誉なレッテルを貼られている。
現在のSUVの原型となったモデルもあるが、街で見かけることはほとんどない。今回は、ジープのようなアルファ・ロメオから、いすゞの奇想天外なコンセプトまで、覚えておきたいSUVの数々を紹介する。
アルファ・ロメオ・マッタ(1951年)
アルファ・ロメオは走りの性能に根ざしたブランドだが、商用車も多く販売しており、各種バンや1951年に登場したオフローダーのマッタ(Matta)などがある。マッタはイタリア軍向けに開発されたが、最終的にフィアットの提案した初代カンパニョーラが採用された。
アルファ・ロメオはマッタの販売を断念せず、1951年から1955年にかけて約2059台を製造した。そのほとんどはイタリアの政府機関(皮肉にも軍隊を含む)の手に渡ったものの、数百台は一般市民にも販売された。マッタは、1900に搭載されたデュアルオーバーヘッドカム(DOHC)の1.9L 4気筒エンジンを流用した、見た目どおりの初歩的なモデルである。
インターナショナル・ハーベスター・トラベル(1953年)
インターナショナル・ハーベスターは、1953年から1975年まで4世代にわたってピックアップベースのSUVにトラベル(Travelall)の名を冠していた。トラック由来の足回りからわかるように頑丈で、ほとんどのモデルに四輪駆動が設定された。
コンバインやトラクターを設計していた会社が製造した乗用車だが、家族全員でブランチに行くのは想像以上に快適だったようだ。インターナショナル・ハーベスターは1960年代、4WDを日常の足とする購入者のニーズに応え、トラベルの乗り心地を改善していった。
そんなトラベルに影を落としていたのが、シボレー・サバーバンだ。トラベルには、ピックアップトラックとSUVの中間的な存在で、5輪トレーラーの牽引を想定した「ワゴンマスター」も土壇場で追加されたが、販売台数は伸びなかった。
1975年のモデルイヤーを最後に、ワゴンマスターは引退。インターナショナル・ハーベスターは、1980年に乗用車の製造を中止した。写真は最終世代モデル。
ジープスター・コマンドー(1967年)
コマンドーが登場するまでに、ジープは20年以上かけて、有名な軍用車の民間版を作り、さまざまな成功を収めてきた。コマンドーは大型の2ドアSUVで、ピックアップ、コンバーチブル(写真)、ロードスター、カバードワゴンがあり、2年前に発売されたフォード・ブロンコをしっかりと視野に入れたモデルであった。
1972年に発表されたC104は、「脱ジープ」のフロントデザインや、新会社AMCの強力な直6およびV8エンジンを採用していたが、販売上の問題を解決するには至らなかった。そのため、コマンドーはほとんど忘れ去られてしまったが、一方ライバルのブロンコは最近復活し、高評価と記録的な売上を見せつけている。
プリムス・トレイルダスター(1974年)
ジープはブロンコへの対応が早かったが、クライスラーは遅かった。ダッジ・ラムチャージャーは、ブロンコが2ドア大型SUVというホットなセグメントを確立してから10年近く経ったあと、遅ればせながら登場したモデルである。姉妹会社のプリムスは、このクルマをトレイルダスター(Trail Duster)と名付けた。
トレイルダスターはラムチャージャーと同様、クライスラーの「スモールブロック」V8と3.7L直列6気筒を搭載。しかし知名度は低く、市場の反応も予想通り冷ややかなものだった。ダッジは7年間でラムチャージャーを11万台販売したのに対し、プリマスはわずか3万6000台にとどまった。ダッジにとって初のSUVであり、最後のSUVとなった。
UMMアルター(1984年)
アルター(Alter)は、複雑な経緯を経て生産に至った。その前身は、フランスの片田舎にあるクルニルという小さな会社の工房で誕生する。その後、UMM(ウニオン・メタロメカニカ)がライセンスを取得し、1977年にクルニルと名付けたオフローダーを、1984年に改良型のアルターを発売。1986年にはさらに改良を加え、アルターIIとした。
アルターは、いずれも「機能優先のデザイン」を体現したモデルである。前方視界を確保するために低いフロントエンドを持ち、リアセクションはできるだけ広い空間を確保するために箱型に設計された。ロングホイールベース、ショートホイールベース、ピックアップが用意された。
アルターIIは耐久性が売り物であった。1989年のパリ・ダカール・ラリーでは、出場したすべての車両が完走している。また、UMMはアルターIIの民間向けモデル(ビーチ向けの明るいデカールを両面に貼ったものなど)を発売し、レジャー向けのオフロード車市場に食い込もうとしたが、ラーダ・ニーバと比較してもあまりにベーシックであったため、その良さは伝わらなかった。
1992年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世がポルトガルを訪問した際、専用車として使用されたこともある。
ダイハツ・ロッキー(1988年)
日本ではラガー、英国ではフォートラックと呼ばれたコンパクトSUV。日本や英国では通用したが、SUVに骨太感を期待する米国では小さすぎた。エンジンも最高出力100psに届かない4気筒エンジンで、十分なパフォーマンスとは言えない。ハンドリングも酷く、米国内でのイメージダウンにつながり、1992年に米国市場から撤退してしまった。
ベルトーネ・フリークライマー(1989年)
1980年代、4×4市場は大きく変貌を遂げた。ジープ・グランドワゴニアやランドローバー・レンジローバーなど、かつては道具として購入されていたモデルが、ステータスの象徴となったのである。
ベルトーネは、この変化をチャンスと捉えた。ダイハツのロッキーをベースに、インテリアを一新し、デザインに手を加え、さらにエンジンをよりスムーズでパワフルなBMW製に換装。1989年からフリークライマー(Freeclimber)として販売した。
1989年から1992年にかけて、初代フリークライマーは約2800台製造された。この数字は決して輝かしいものではなかったが、ロッキーの改良型をベースとした2代目モデルの開発を決定するには十分だった。1992年に販売を開始したフリークライマーIIは、1995年まで2800台が製造されたが、ベルトーネは他のプロジェクトに生産能力を振り向けるため製造中止を決定した。
ラフォルツァ5リッター(1989年)
1980年代後半にイタリアを旅した人なら誰でも知っているような、1989年に発表されたラフォルツァ5リッター(LaForza 5 Liter)。イタリア軍、警察、カラビニエリのために作られたレイトン・フィッソーレ・マグナムをベースにしている。
フィアット・ウーノのステロイド版といった感じのマグナムを設計したトム・ティヤルダが、レンジローバーに代わるラグジュアリーSUVの設計を依頼された。こうして生まれた5リッターは、フォードから供給された4.9L V8エンジンと4速ATを搭載し、四輪を回転させる。本革シートやリアルウッドなど、高級感あふれる室内空間が特徴。
当初はカリフォルニアを中心によく売れたが、初期型はさまざまな問題に悩まされ、同社の米国部門に打撃を与えた。1990年に破産申請し、サウジアラビアのバドラーン・エンタープライズ社がその資産を買い取り(本国で5リッターの販売を開始)、復活を遂げたのである。
その後、先進的な高級イタリアンSUVは米国に戻り、1990年代には何度かアップデートが行われたが、レンジローバーの人気には及ばなかった。2000年代前半に販売を終了している。
ビアジーニ・パッソ(1990年)
1990年から1993年にかけて、イタリアで約65台のパッソ(Passo)が各メーカーからの寄せ集めの部品で組み立てられた。初代フォルクスワーゲン・ゴルフ・カブリオレのボディにフルボディキットを装着し、フィアット・パンダのヘッドライトをつけ、ゴルフ・カントリーの四輪駆動システムで固めたものである。
その結果、乗用車とSUVの境界線が曖昧な、分類不能のレジャービークルが誕生したのである。かなりの台数が錆で消滅したため、2020年現在、希少な存在となっている(突出した価値はないが)。ここに紹介する個体は、フォルクスワーゲンのコレクションの一部である。
マツダ・ナバホ(1990年)
初代フォード・エクスプローラ・スポーツをベースに、グリルのデザインと前後のライトを変更したのがナバホ(Navajo)。マツダ初のオフローダーとして、ケンタッキー州ルイビルで生産された。
ナバホは短命であった。4ドアの設定はなく(フォードはエクスプローラーで4ドア仕様を独占していた)、通常SUVとは無縁のブランドから発売されたのである。1994年に販売が終了し、マツダは2001年モデルでトリビュート(フォードのバッジエンジニアリング車)を発表するまで、SUVから撤退していた。
オールズモビル・ブラバダ(1990年)
1990年に発売された初代オールズモビル・ブラバダ(Bravada)は、ベースとなったシボレーS-10ブレイザー/GMC S-15ジミーとほぼ同じ外観だった。スプリットグリルの採用でオールズモビルのラインナップと足並みを揃え、ゴールド・パッケージが設定されるなど細かい違いはあったが、タキシードを着たブレイザーとして見分けられるドライバーはほとんどいなかった。
初代ブラバダは1994年まで販売され、その翌年には2代目となったが、ここでも基本的なバッジエンジニアリングの枠を超えることはなかった。1990年代後半、米国ではプレミアムSUVの需要が高まり、2代目は初代よりも売れた。2001年に発売された3代目ブラバダは、2004年のオールズモビル社の閉鎖に伴い、最終型となった。
いすゞ・アミーゴ(1990年)
この奇妙な3ドアSUVは、欧州ではオペル/ヴォグゾールのフロンテラとして何となく記憶に残っているらしいが、米国ではアミーゴ(Amigo)の名で販売されていた。米国の自動車市場はよほどのことがない限り、小柄なSUVには愛着を示さないということを、商品企画担当者は改めて思い知っただろう(初めてではないが、最後でもない)。
4気筒エンジンとマニュアルのみのトランスミッション(当初)はこのクラスでもほとんど愛用されず、1994年に廃止された。
ホンダ・クロスロード(1993年、初代)
ホンダ史上唯一V8エンジンを搭載した量産車は、車高の低いスポーツカーではなく、ランドローバー・ディスカバリーのバッジエンジニアリング車であるクロスロード(Crossroad)だった。ホンダとローバーの提携の産物で、日本市場でジープ・チェロキーのようなSUVに対抗するために作られた。
2ドアと4ドアを用意したクロスロードだが、信頼性が低く、燃費も悪いため、唯一の販売国である日本ではその魅力は大きく制限された。1998年に販売を終了し、ホンダはローバーの協力なしに設計した初代CR-Vでその穴を埋めた。
ホンダ・パスポート(1993年、初代)
初代パスポート(Passport)は、名ばかりのホンダ車だった。いすゞのロデオにホンダのエンブレムをつけたもので、よく訓練された目でなければ見分けがつかない。バッジエンジニアリングは、SUVセグメントに参入するための最も迅速でコスト効率の良い方法であり、いすゞはお金を出してくれる人には喜んでクルマを分け与えたのである。1997年から2002年まで製造された2代目パスポートもいすゞであった。
ホンダは2000年代にいすゞへの依存をやめ、自社設計のモデルに専念し、SUVセグメントでの代表的な存在となった。それ以来、いすゞのバッジを付けたホンダのSUVは発売されていないが、2019年モデルでパイロットのショートモデルにパスポートの車名が復活している。
ポンティアック・サンランナー(1994年)
スズキとゼネラルモーターズとの合弁により、1988年に登場したジオ・トラッカー。カナダではGMCとシボレーがトラッカーとして販売していたが、日本ではスズキ・エスクードとして知られている。
その後、1992年にカナダ市場向けにゼネラルモーターズが設立したブランド、アスナに譲渡され、1995年のアスナ閉鎖後にポンティアックのモデルとなった。1998年まで、2ドアモデルのみが販売された。
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