世界トップの自動車メーカーへ
フォルクスワーゲン・グループでトップを務め、世界最大の自動車メーカーへと成長させたキーパーソンでもある、フェルディナント・ピエヒが亡くなった。享年82歳。ドイツのタブロイド新聞、ビルド紙によれば、日曜日に亡くなったとしているが、ピエヒ家やポルシェ、フォルクスワーゲンなどからの確認はできていないという。
フェルディナント・ポルシェの孫となるピエヒは、フォルクスワーゲン・グループにおけるリーダーシップだけでなく、エンジニアとしての技量も高く、自動車産業に大きな偉業を残したといえる。
祖父が創設したポルシェにピエヒが入社したのは、大学を卒業した1963年。伝説的なスポーツカー、ポルシェ917の開発を主導したといわれ、クルマは1970年にル・マン24時間レースで勝利を収めている。しかし、ピエヒとポルシェの家族は実質的なポルシェの経営に関与してはならないという取り決めによって、1975年にフォルクスワーゲン・グループに属していたアウディへ、1975年に移籍する。
ピエヒはアウディのテクニカル・エンジニアリング部門の責任者に就き、アウディ80や100といったモデルの開発を主導。同時にグループBラリー・マシンとして有名な4輪駆動モデル、アウディ・クワトロの開発にも重要な役割を果たした。ブランディングにも理解があり、BMWやメルセデス・ベンツというライバルに伍する、プレミアム・ブランドへとアウディを改革することにも積極的だった。
1993年、ピエヒは深刻な財政難に陥っていたフォルクスワーゲンの会長に就任。フォルクスワーゲン・グループ傘下のブランドで共通利用できる、モジュラー構造技術の開発を主導し業績を改善する。同時にスコダやベントレー、ブガッティ、ランボルギーニなどを次々に買収。トラックメーカーのマンとカニア、オートバイのドゥカティも傘下に収めた。
フォルクスワーゲン・グループとポルシェとの親密な関係構築にも取り組み、ピエヒはポルシェの株式の10%を保有。65歳でフォルクスワーゲンの会長職を辞するが、ディーゼルエンジンの排気ガス不整問題、ディーゼルゲード・スキャンダルで世間を騒がした2015年まで、監査役会会長のポストに付いていた。
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