1896年にスタートしたオリンピックの歴史の中で、モータースポーツ競技は2度に渡って行なわれたことがある。1度目は1900年のパリ五輪だが、一般的には公式プログラムとみなされておらず、2人乗りから7人乗りまで様々な競技があったものの記録は曖昧。その後は1936年にラリー競技が実施されたが、こちらも非公式なものだ。
このような経緯から、モータースポーツは本格的なオリンピック競技に採用されたことがないが、2024年パリ五輪が開催される最中、モータースポーツをオリンピック競技に含めるべきかどうかが議論の対象となり、F1ドライバーの中でも賛否両論ある状態だ。
■モータースポーツをオリンピック競技にするべき? そんな未来を期待するルクレール……一方フェルスタッペンは否定的「僕には向いてない」
F1がオリンピック競技となることはないかもしれないが、1950年にスタートしたF1の歴代ドライバーの中には、オリンピック/パラリンピックに出場した者もいる。今回はその8人のドライバーを紹介する。
■アレッサンドロ・ザナルディ(ハンドサイクル)
パラリンピック出場:2012年ロンドン、2016年リオ
F1参戦年度:1991年~1994年、1999年
ザナルディはオリンピック(パラリンピック)でメダルを獲得した唯一のF1ドライバー。5つの金メダルと2つの銀メダルを獲得している。
2001年にアメリカのCARTで大事故に遭い、両脚を失う重傷を負ったザナルディ。しかし義足をつけたザナルディは不屈の闘志でモータースポーツ競技にカムバックしただけでなく、2007年からはハンドサイクルにも情熱を注ぎ、世界選手権で18個のメダルを獲得した。そしてオリンピックではロンドン大会とリオ大会に出場し、多くの競技でメダルを持ち帰ったのであった。
■プリンス・ビラ(セーリング)
オリンピック出場:1956年メルボルン、1960年ローマ、1964年東京、1972年ミュンヘン
F1参戦:1950年~1954年
タイの王子で、F1初のアジア人ドライバーでもあるビラ王子は1935年、21歳でレースを始め、F1世界選手権の黎明期に参戦。何度か入賞も記録した。なお非選手権レースではいくつか優勝を収めたこともある。
そんなビラはセーリングにも情熱を注ぎ、タイ代表として4度オリンピックに出場したが、メダルを獲得するには至らなかった。
■ロベルト・ミエレス(セーリング)
オリンピック出場:1960年ローマ
F1参戦:1953年~1955年
ロベルト・ミエレスは、レース以外にもセーリング、ラグビー、テニスなど様々なスポーツに打ち込んだアスリートだった。アルゼンチン出身の彼は、ファン・マヌエル・ファンジオやホセ・フロイラン・ゴンザレスと共にヨーロッパに招かれてレースに出場。1953年のオランダGPでF1デビューを果たした。
1954年途中にマセラティに移籍してからはコンスタントに上位入賞を記録。最高位は4位で、1955年は年間ランキング8位となった。
その後は再びセーリングの世界に戻り、1960年ローマ五輪に出場。先述のプリンス・ビラとも争い、17位だった。
■アルフォンソ・デ・ポルターゴ(2人乗りボブスレー)
オリンピック出場:1956年コルチナ・ダンペッツオ
F1参戦:1956年~1957年
デ・ポルターゴは1956年、1957年とフェラーリからF1に参戦したドライバー。1956年イギリスGPでは2位表彰台を獲得している。しかも同年にイタリアのコルチナ・ダンペッツオで開催された冬季オリンピックにも2人乗りボブスレーにスペイン代表として参加。4位入賞を果たした。
オリンピックでこそメダル獲得はならなかったが、デ・ポルターゴは1957年の世界選手権で銅メダルを獲得している。しかしながら、メダル獲得から数ヵ月後に参戦したスポーツカーレースのミッレ・ミリアで彼の乗るフェラーリのタイヤがパンクして事故を起こし、この世を去った。
■ロビン・ウィドウズ(4人乗りボブスレー)
オリンピック出場:1964年インスブルック、1968年グルノーブル
F1参戦:1968年
ウィドウズは1968年イギリスGPにクーパーから1戦だけF1に出走した経験があるが、マシントラブルで完走は叶っていない。そして同年にはグルノーブル五輪で4人乗りボブスレーに出場し、最高は8位だった。
■ボブ・サイード(4人乗りボブスレー)
オリンピック出場:1968年グルノーブル、1972年札幌
F1参戦:1959年
サイードは名門プリンストン大学を中退して地元アメリカでレースを始め、デイトナ・ビーチとロードコースで戦後最速記録を打ち立てたこともある。F1出走は1959年アメリカGPの1回のみで結果はリタイア。ボブスレーではウィドウズ同様にグルノーブル大会に出場し、札幌大会にも参加。最高位は10位だった。
■ベン・ポン(スキート射撃)
オリンピック出場:1972年ミュンヘン
F1参戦:1962年
ル・マン24時間の出場経験もあるポンは、1962年に母国戦のオランダGPに出走するもリタイア。アクシデントによりマシンから投げ出されたことで、2度とシングルシーターのレースはしないと誓ったという。そんなポンはレース引退後にクレー射撃に挑戦。ミュンヘン五輪では31位だった。
■ディビナ・ガリカ(アルペンスキー、スピードスキー)
オリンピック出場:1964年インスブルック、1968年グルノーブル、1972年札幌、1992年アルベールビル
F1参戦:1976年、1978年
ディビナ・ガリカは冬季オリンピックに4度出場し、イギリス代表としてアルペンスキーの滑降と回転に出場した。その中での最高成績は7位だったが、ワールドカップでは2度の表彰台に立った。
そんなガリカが第二のキャリアとしてスタートさせたのがレースだった。彼女はF1にエントリーした数少ない女性ドライバーのひとりだが、3戦全て予選落ちで決勝出走果たせず。イギリスF1選手権では表彰台も経験している。レースキャリアを終えた後は再びスキーの世界に戻り、1992年アルベールビル大会に出場している。
■その他にも……
オリンピックに出場したF1ドライバーは上記8名だが、オリンピックに出場しかけたF1ドライバーも何人かいる。最も有名なのが3度のF1ワールドチャンピオンであるジャッキー・スチュワート。彼はクレー射撃の名手であり、スキート射撃で国内およびヨーロッパのチャンピオンにも輝いたが、1960年ローマ五輪では惜しくもイギリス代表選考から漏れてしまった。
しかしこの落選はスチュワートにモータースポーツでの成功を扉を開いた。それからわずか5年でF1ドライバーとなり、当時の最多記録となる27勝を挙げた。
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