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「芸術品の軽自動車を守り抜いてほしい」勇退した鈴木修氏の功績とは

掲載 更新 28
「芸術品の軽自動車を守り抜いてほしい」勇退した鈴木修氏の功績とは

 「最後ですから、ごきげんよう。軽自動車は芸術品、守り通して欲しいですね」。スズキの鈴木修会長は、2021年5月13日に行われた2020年度の決算説明会で、このようにコメントした。

 かつて軽自動車の増税構想や軽自動車枠を根本的に見直そうとする動きに対して鈴木修氏は以前から、「軽自動車は寸法も排気量も厳しく制限されている。そのなかで4人乗りの素晴らしいクルマができているのは、軽メーカー各社の努力のたまもので、いわば芸術品のようなものだ。

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 その努力を見ないで普通のクルマと同じようなものと言うのはいかがなものか」と反論してきた。

 40年以上にわたってスズキの経営を主導し、いわば日本の軽自動車を育ててきた、カリスマ経営者の最後の言葉として、実に重みのあるものだった。

 鈴木修会長は、2021年6月に会長職を退任し、相談役となられる予定で、今回が最後の記者会見。そこで僭越ながら、鈴木修会長の足跡を振り返ってみたい。

文/渡辺陽一郎
写真/スズキ マルチスズキ Adobe Stock(Reuters Photographer/REUTERS)

【画像ギャラリー】「軽自動車は芸術品」カリスマ経営者にして多くの芸術品を生み出したアーティスト 鈴木修会長の足跡を辿る

■40年以上にわたりスズキの礎を築いてきた鈴木修氏の功績とは

1930年1月30日、岐阜県益田郡下呂町生まれ。御歳91歳になられる鈴木修会長と長男の鈴木俊宏社長。鈴木修氏は6月に相談役に就任する(Thomas Peter/REUTERS)

 鈴木修氏は、1930年1月30日に岐阜県で生まれた。中央大学法学部を卒業後、銀行勤務を経て、1958年4月に鈴木自動車工業(現在のスズキ)に入社した。

 スズキが得意な軽自動車の規格は、1949年に設けられたが、この時点では全長:2800mm、全幅:1000mm、全高:2000mm、エンジン排気量は2サイクル:100cc、4サイクル:150ccというものだった。3輪車を想定した規格で4輪車は成立しない。

 その後、軽自動車規格は毎年のように変わり、1955年になって全長:3000mm、全幅1300mm、全高:2000mm、エンジン排気量:360cc(2/4サイクル共通)に落ち着いた。

1955年にスズキ初の市販四輪車、スズライトSSが発売。スズライトのスズはスズキの略、ライトは軽いと光明という意味。全長2990×全幅1295×全高1400mmのボディに15.1psの359cc空冷2気筒エンジンを搭載。価格は大卒の初任給が1万円前後だった時代に42万円

 スズキは当時から対応が早く、1955年には新規格に沿った空冷2サイクル2気筒359ccエンジンを搭載する、日本車初のFFとなる、初代スズライトを発売している。今に通じる2輪と4輪の軽自動車が出そろった。

 鈴木修氏は、この3年後に2代目社長、鈴木俊三氏の娘婿になり、同年4月にスズキに入社した。1961年にスズキは新しい軽商用車のスズライトキャリイバン/トラックを発売する。この生産のために愛知県豊川市に新しい工場を建設することになり、その指揮を任されたのが、当時30歳の課長だった鈴木修氏であった。

1961年に発売されたスズライトキャリイ。このキャリイの生産工場設立のため陣頭指揮を執ったのが若き日の鈴木修氏だった。スズライトキャリイはラダーフレームと前後リーフスプリングサスの採用により商用車としての耐久性を大幅に向上

 入社3年後の試練だが、若手の社員10名を集めてプロジェクトを結成した。この時は仮設事務所で机の配置も工夫したという。円形に机を置き、中心に鈴木修氏が座る。椅子を回転させると、誰とでも即座に話ができた。

 そしてわずか9ヵ月足らずで工場を完成させ、予算は3億円(現在の貨幣価値で40~50億円)だったのに、2億7000万円で仕上げたという。

 1963年には、鈴木修氏は取締役に就任した。新工場が稼働を開始したものの、当時は部品の質や供給体制が悪く、車両の生産も滞りやすかった。そこで鈴木修氏はモーターサイクルで部品工場を訪れ、生産のアドバイスを行った。

 販売店に対しても同様であった。軽自動車は都市部よりも、公共交通機関が未発達な地域で、手軽な移動手段として使われることが多い。税金に加えて1台当たりの価格も安いため、小型/普通車のような規模の大きな販売店ではなく、業販店(修理工場などに併設された小さな販売店)を中心に売られる。

■徹底した現場主義「気さくで誠実な」人物像

マルチ・スズキ・インディア社(写真)の生産能力は年間150万台、スズキ・モーター・クジャラート工場の75万台と合わせるとスズキのインドにおける生産能力は225万台となる

 業販店にはさまざまな業態があり、スズキ、ダイハツ、三菱という具合に複数メーカーの軽自動車を幅広く販売する店舗もある。その中でスズキが売れ行きを伸ばすには、販売店の共感を得ることも大切であった。

 そこで鈴木修氏は、販売店を綿密に訪れた。冠婚葬祭にも可能な限り出席する。記憶力も抜群だという。例えば前回訪れた時に、経営者の奥さんが病気であれば、次回訪れた時は「奥さんの具合はいかがですか?」と必ず声を掛ける。

 経営者の娘さんが妊娠していたとすれば、次回訪れた時には「お孫さんは今3歳ですか? 可愛い盛りですね」という具合だ。たちまち販売店には鈴木修氏のファンが大勢できた。

 海外への積極的な進出も鈴木修氏の功績だ。1978年に代表取締役社長に就任すると、インドへの進出を考えた。その発端は「本当のところは大手メーカーと同じように先進国に進出したかったが、小さいクルマを作ってほしいという国はインドしかなかった。

 しかし、小さな市場でも良いからNO.1になれば、社員に誇りを持たせられる」という想いだった。のちに「インド進出は先見の明というわけではなかった」とコメントしている。

 もっとも、この時点で1980年代に入っていたから、NO.1になれる海外市場はさほど多くない。そこでインドとの交渉に入ったが、双方とも多額のコストは費やせない。問題を打開するため、軽自動車造りのノウハウを生かし、価格の安い国民車的な小型車を着実に普及させた。

 そしてインドの4輪車市場におけるスズキのシェアは、50%を超えるに至った。そのほか、アフリカ、中南米、中近東のほか100を超える地域に、ジムニーやバレーノ、スイフトのセダン、ディザイアなど14以上のモデルを輸出している。

 このインド市場でも鈴木修氏の現場主義が生きている。

 初めてインド市場で販売したマルチ800やワゴンRなどは日本のモデルとはサイズや排気量が異なり、軽を拡大したエスプレッソや人気SUVのビターラブレッツァなどインドの環境やニーズに合わせたインド独自のモデル、税金が優遇される全長4m未満のクルマを展開している。

 こうした現場の声を聞く、現場主義のクルマ造りがシェア50%に引き上げた要因だろう。

 そのほか、鈴木修会長は徹底したコスト管理を行うことでも知られ、品質のチェックにも厳しい。その甲斐あってか2015年にデビューしたバレーノ発表の会見では「品質がようやく日本のレベルに達した」と述べている。

■鈴木修氏が携わったスズキのクルマたち「ジープのミニ、ジムニー」

1970年に発売された初代ジムニー。ジムニーという車名は、鈴木修会長が当時のデザイナーにジープみたい名前で考えてくれと言ったら、「ジープのミニなのでジムニーはいかがですか」と聞いていたので「それはいい!」と決めたという

 鈴木修氏が取締役に昇格したのは1963年、代表取締役社長に就任したのは1978年だから、近年のスズキの主だったクルマには、鈴木修氏がすべて関係している。

 まずは1970年に発売された軽自動車の初代ジムニーが挙げられる。ジムニーは最初からスズキが開発したクルマではない。3輪トラックを中心に手掛けていたホープ自動車の「ホープスターON型」がベースだ。

 鈴木修氏がホープ自動車の創業社長である小野定良氏と知り合い、製造権を買い取り、そこに改良を施して初代ジムニーが誕生した。

 当初は売れないと予想していたが1ヵ月に300台、初年度に6500台、2年目に5600台も売れたという。その時、鈴木修氏はアメリカで赤字を出しており、ジムニーが売れたおかげで会社に借りがなくなったということで、会社を辞めようと思ったそうだ。

 ジムニーは軽自動車のSUVで、悪路走破力は抜群に高い。日本の狭く曲がりくねったデコボコの激しい林道や未舗装路に最適だ。Uターンもしやすい。日本で購入可能な最高峰の悪路向けSUVとして生まれ、50年以上を経た今でも、コンセプトを変えずに進化を続けて高い人気を得ている。

 ジムニーが発売された1970年には、軽自動車は125万5913台を販売したが、その後に急落した。1973年のオイルショック、これに続く排出ガス規制の痛手が大きく、1975年の登録台数は58万8306台であった。わずか5年間で、軽自動車市場は53%の需要を失った。まさに恐慌であった。

■こんなクルマがあると(アルト)便利なんです

1979年に登場した初代アルト。ウインドウウォッシャーも電動ポンプを使用せず、360cc時代に見られた手動のポンプで噴出するタイプにし、左側ドアの鍵穴まで省略するなど徹底したコスト削減と、モノグレード、商用車登録(ボンネットバン)によって47万円を実現した

 この時に鈴木修氏が企画したのが、製造コストは35万円/販売価格は45万円という新しい軽自動車であった。その成果として1979年に47万円の低価格で発売されたのが初代アルトだ。コスト低減を徹底させ、ラジオ、シガライター、左側の鍵穴まで省いた。

 特に画期的だったのは、初代アルトを4ナンバー規格の軽商用車として開発したことだ。背景には物品税率があった。1989年に消費税が導入される前は、車両の卸売価格には物品税が課せられ、小売価格に含まれていた。

 物品税率は小型乗用車が18.5%、軽乗用車は15.5%だが、軽商用車は公共性が高いために非課税であった(後に5.5%の課税対象に入る)。アルトはこの制度を利用して、物品税が価格に上乗せされない軽商用車にすることで、47万円の低価格を実現させた。

 商用車の規格では、後席の面積よりも荷室を広く確保せねばならない。そのためにアルトを4ナンバー車で造ると、後席が狭くなって居住性は実質的にクーペとなったが、低価格を優先させた。

 後席の広い乗用車としては、アルトと同じボディを使うフロンテが用意され、価格は最も安いスタンダードが56万8000円であった。アルトは軽商用車の規格を使ってコスト低減を図り、価格を9万8000円(比率に換算すれば17%)安く抑えた。

 「この手があったか!」とばかり、ほかのメーカーも追従して、1980年代の軽自動車はボンネットバンの新車ラッシュになった。ダイハツミラ(1980年)、三菱ミニカエコノ(1981年)、スバルレックスコンビ(1981年)などが登場している。

 そのためにボンネットバンの販売台数は、1978年は4万6424台であったが、初代アルトが発売された1979年には10万2514台に急増した。1980年には他メーカーの参入で21万1960台、1981年は35万383台、1982年は44万2130台と増えた。

 これに伴って軽自動車市場は全体的に盛り上がり、1990年には180万2576台に達した。底辺だった1975年に比べると3倍以上の売れ行きだ。アルトはスズキだけでなく、軽自動車市場全体を活性化させて、業界を窮地から救った。

 ちなみにアルトはイタリア語で「優れた」という意味で、女性の声や楽器の音の高さにも使われるが、鈴木修氏は「あると」便利なクルマなんです、と笑顔で語っていた。

■軽自動車のワゴンであーる(ワゴンR)

ミニバンのコンセプトを軽自動車に収め大ヒットしたワゴンR。ドアは当初右側1枚、左側2枚の変速3ドアにテールゲートを備えていた

 ボンネットバンで息を吹き返した軽自動車業界だが、売れ行きは再び伸び悩み傾向を見せ始める。そこで企画されたのがワゴンRであった。

 前述の通り1989年に消費税が導入されると物品税は廃止され、軽商用車の規格にこだわる必要はなくなった。背の高いミニバンスタイルを採用すれば、軽自動車でも広くて快適な後席と使いやすい荷室を実現できる。そこで1993年に初代ワゴンが誕生した。

 名付け親は鈴木修氏で「軽自動車のワゴンであーる」という意味。冗談のような話だが、本人から数回にわたって聞いたエピソードだ。そしてワゴンRの名称は、機能がシンプルで好感の持てる車両の性格にピッタリだった。

 ただし、従来のスズキ車とは大幅に異なる商品なので、開発段階では心配も伴った。

 そこでステアリングやATレバーはセルボやアルト、リアゲートはエブリイという具合に、ワゴンRの70%以上の部品をほかの車種と共通化してコストを抑えている。1993年の発売時点における1ヵ月の目標台数は、5000台(当初の社内的な計画では3000台)とされていた。

 それが1994年には1ヵ月平均で1万2000台、1995年には1万7000台、1996年には2万台を超えて軽自動車の販売1位になった。今のホンダN-BOXに匹敵する売れ方だ。

 通常のクルマの販売推移は、発売から時間を経過するに従って台数を下げるが、ワゴンRは逆に増えた。着実に市場に浸透して、息の長い人気車になった。N-BOXも同様の経過を辿っている。

■現場の声を聞き開発部に進言してハスラーが生まれた

近年稀にみる大ヒット作となった初代ハスラー

 この後にはアルトの時と同様、ダイハツムーヴ、ホンダライフ、スバルプレオなど背の高い軽自動車が次々と発売される。1993年に158万932台(1990年の88%)に下がっていた軽自動車の売れ行きは、再び盛り返して2006年には200万台を突破した。スズキは鈴木修氏の指揮により、再び軽自動車を救った。

 鈴木修氏が代表取締役社長に就任した1978年には、スズキの売上高は3232億円だったが、この後の約30年間で3兆円企業に成長した。2021年度はコロナ禍の影響により、前年度に比べて8.9%減少したが、売上高は3兆1782億円となっている。

 そして、2013年12月に発表された初代ハスラーも鈴木修会長の鶴の一声で発売されたのは有名な話だ。鈴木修会長が出張中、ある人から「どうしてKeiをなくしたのかと聞かれたぞ。一度検討したらどうか」と開発部に進言。

 Keiは、アルトをベースにした軽クロスオーバーSUVで、実際売れたわけではなく、2009年には生産を終えていたが、たしかに車高が高く実用的なクロスオーバーSUVの軽は市場には存在していなかった。

 こうしてハスラーの開発が始まったわけだが、発売と当時に大ヒットし、しばらく納車半年以上という状態が続いた。

 ハスラーの発表会の席上で鈴木修会長は「庶民のみなさまというか、みんなで遊び心をもって楽しめるクルマを目指した」と述べている。まさに現場主義と、売れるクルマを嗅ぎつける野生の勘=勘ピュータとでもいうのだろうか、ハスラーの商品力とその売れゆきに驚かされた。

■鈴木修氏勇退後のスズキはどうなるのか?

 以上のように鈴木修氏の足跡を振り返ると、車両の開発と販売、海外進出や他社との業務提携、さらにオイルショックや排出ガス規制などの受難が生じた時の対応まで、すべてに精通して的確な指揮をしてきたことがわかる。

 スズキだけでなく、日本の自動車業界のリーダーであり、求心力であり、厳しさと優しさを兼ね備える父親のような人物だ。

 今後、鈴木修会長が退任されると、代表取締役社長の鈴木俊宏氏が全面的にスズキの指揮をとる。電動化を筆頭に環境への対応が急務で、自動運転に向けた技術開発も行わねばならない。

 通信機能も含め、他社との協調は不可欠だ。その一方で競争に打ち勝つ必要がある。今まで経験しなかった事柄への対応を、迅速に行わねばならない。

 そこで重要な意味を持つのが、冒頭で述べた鈴木修会長の「軽自動車の芸術品は、守り通して欲しいですね」という言葉だ。運転のしやすい小さなボディに、さまざまな技術やアイデアを凝縮して、割安な価格で提供する。

 この考え方は、軽自動車はもちろん、さまざまなクルマに当てはまるだろう。最先端の技術を備えながら、扱いやすく求めやすいクルマは、日本、海外を問わず好調に売られて多くのユーザーを幸せにするからだ。

 鈴木修氏は、多種多様の困難に直面してそれを乗り越えながら、芸術品を守り通してきた。「鈴木修さんならどうしたか」と時々考えながら、これからも優れた商品を生み出していただきたい。スズキのさらなる発展に、期待しております。

【画像ギャラリー】「軽自動車は芸術品」カリスマ経営者にして多くの芸術品を生み出したアーティスト 鈴木修会長の足跡を辿る

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みんなのコメント

28件
  • 軽もだいぶ進化した。
  • ワゴンRの名前を考えたのは、モンスポの田嶋さんって聞いてたけど違うのかな。

    本田が宗一郎氏が逝去されてから変わったようには ならないで欲しい。
※コメントは個人の見解であり、記事提供社と関係はありません。

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