マクラーレン のみんなの質問

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ウイリアムズ・ホンダは喧嘩別れなんですか?


残念ながらF1のウイリアムズチームの創始者の
フランク・ウイリアムズさんが亡くなりました。

私はまだ当時F1を見ていなかったので当時の事に詳しくないのですが、
その話題の中で『実際は喧嘩別れをして1984年〜1987年の
3年間しか組んでない』とのコメントを見たのですが、
あんなに強かったホンダエンジンと決別してホンダがマクラーレンに
行ったのは喧嘩別れしたからなんですか?
だとしたらその理由を教えてください

よろしくお願いします

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ベストアンサーに選ばれた回答

喧嘩別れではなく、ホンダからの決別宣言にウィリアムズ側が怒っただけです。

伝記で読んだだけなので事実かどうかは知りませんが、「ホンダエンジンパワーに依存してシャシー開発がおろそかになった」ために将来が厳しいと考えてたところに、「ロン・デニスとアイルトン・セナからの熱烈なラブコールで決めた」と聞いてます。

質問者からのお礼コメント

2021.12.10 01:29

回答頂いた皆さん、ありがとうございました。こちらの欄をお借りして皆様にお礼申し上げます m(_ _)m

その他の回答 (5件)

  • エンジンだけでなくお金もくれくれマンだったから。
    ウィリアムズにピケが来た時の契約金はホンダが払っていた。
    シャシ性能もイマイチでリヤサスに問題を抱えていたのにホンダから指摘するまでは金がかかるからと改良しようとしなっかたり。とにかく金で揉めた。

  • ホンダが頑固なスコットランド人に嫌気さしたから。

    パトリック・ヘッドも「ホンダと別れる時が来た」と発言したそうですが、翌年のジャッドエンジンの代金はホンダが肩代わりしたとフランク御大も認めてました。

  • フランクは、自動車メーカーの言う事なんて聞かないんですよ。
    ブラジルでクルマを売りたいホンダの意図する、
    ネルソンへの肩入れなんてしないし、
    日本人ドライバーを乗せたくても聞きもしない。
    ホンダは、翌年のロータス通り、
    ネルソン+中嶋のラインナップを希望してたんです。

    これは、後年になっても、
    買収に動いたBMWの言うこと聞かないからエンジン失って低迷したりと、
    車椅子の闘将、フランクウイリアムズの頑固一徹によるもの。

    偉大な人物が亡くなってしまいました。」

  • 一番の原因は、1986年はウィリアムズホンダが圧倒的に強くて、マクラーレンポルシェに乗るアラン・プロストが「もうホンダエンジンでないと勝てない」と発言したことです。そしたらマクラーレン総帥のロン・デニスがホンダエンジン獲得に動き出しました。

    さらに、ウィリアムズ内でマンセル派とピケ派に別れていたのはそうですが、最終戦のオーストラリアGPでここでマンセルが3位以内に入ればホンダエンジン初のチャンピォンだということで創立者の本田宗一郎会長も招かれてた。ところがマンセルはウィリアムズピットの判断ミスでタイヤバーストしリタイヤに終わりチャンピォンを逃しプロストが大逆転でチャンピオン獲得・・・

    本田陣営も、御大の目の前でウィリアムズに赤恥をかかされ関係が急に悪化しマクラーレンに乗り換えようと決心したのです。


    フランク・ウィリアムズさんは残した功績は偉大ですが、ドライバーやエンジンサプライヤーにとても厳しい人で、必ずしもF1関係者の皆から好かれてたわけじゃなかったんですよ。亡くなったのは残念でならないです。

  • ウィキによると
    当時のドライバー
    チーム自国ドライバーのマンセル
    ホンダが推薦して入ったピケ
    この2人が仲が悪かった感じのようです
    2人をコントロールしてた監督が事故で負傷
    その間に2人は協調出来なくて優勝を逃す

    その後、日本人ドライバーを入れようとホンダが推薦したが拒否
    で離れたって事です

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