かつてF1に参戦したレーシングチーム『トールマン』の創設者であるテッド・トールマンが、長い闘病生活の末に86歳で死去した。
家族の声明によると、トールマンは長期にわたって闘病生活を送っており、最終的には心腎症候群の合併症で亡くなった。テッドが亡くなったあとには、妻のマイティと息子のマイケルが残された。
洪水による中止から1年。F1エミリア・ロマーニャGPが復活へと着々と準備、ポスターデザインにはセナへのオマージュも
トールマンは若きアイルトン・セナにF1デビューをさせたことで最もよく知られているが、彼のレガシーはその一瞬をはるかに超えている。実業家として成功を収めたトールマンは、F2からモータースポーツに参入し、1980年にチームをチャンピオンシップタイトルに導いた。トールマン・グループのリソースを活用した彼は、その後1981年にF1参入を果たした。F1の大手チームに比べて財政面に制限があったにもかかわらず、トールマンのチームは好戦的かつ革新的であることを証明した。
このチームは、将来のF1の才能を育成する場となった。敏腕チームマネージャーのアレックス・ホークリッジは、このスポーツを形作ることになる優秀な頭脳の持ち主のグループを集めたが、そのなかにはエアロダイナミシストのロリー・バーンや、ストラテジストのパット・シモンズ(どちらもその後ミハエル・シューマッハーが圧倒的優位性を確立するにあたっての立役者)もいた。またドライバーの面では、デレック・ワーウィックやステファン・ヨハンソンといった未来のスター選手のキャリアを育んだ。
そして1984年はトールマンにとってほろ苦い年だった。チームは、雨のモナコGPで13番手から2番手に浮上したアイルトン・セナの輝きを目の当たりにしたが、物議を醸した赤旗の導入によって優勝の可能性を奪われたのだ。この出来事とF1の財政的現実から、最終的にトールマンは1985年にルチアーノ・ベネトンにチームを売却することを決めた。同チームは数十年にわたって進化を遂げ、現在のアルピーヌF1チームとなった。
テッド・トールマンは真のレース愛好家だった。彼は単なるチームオーナーではなく、自身も競技者だった。彼はオフショアのパワーボートレースに秀でており、世界記録を樹立して、このスポーツにおけるイギリスで最も偉大な選手として認められた。彼の冒険心はそれだけにとどまらず、リチャード・ブランソンとともに大西洋横断のスピード記録を塗り替え、伝説のル・マン24時間レースに参戦し、過酷なダカールラリーにも3度挑戦した。
F1での日々の後、トールマンはオーストラリアを大変気に入り、オーストラリアとフィリピンを行き来するようになった。彼はまた、オーストラリアのMINIチャレンジ・レーシング・シリーズを運営するために、トールマン・モータースポーツの名を復活させた。
テッド・トールマンの物語は、情熱、イノベーション、そしてあらゆる形のモータースポーツへの愛だ。彼のF1チームは究極の栄光を成し遂げられなかったかもしれないが、それは伝説の出発点として役目を果たし、才能に対するトールマンの鋭い目を証明した。彼は豊かな遺産を残している。アイルトン・セナにチャンスを与えただけでなく、レースの世界へ永続的な貢献を行ったのだ。
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