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死してなお 今はなき自動車メーカーが残した名車 39選 後編 消えない灯火

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死してなお 今はなき自動車メーカーが残した名車 39選 後編 消えない灯火

スチュードベーカー・アヴァンティ(1962年)

アヴァンティは、スチュードベーカーが天空のガラクタ置き場に消える前の最後のあがきだった。シボレー・コルベットに対抗して開発されたアヴァンティは、レイモンド・ローウィのデザインによるボディはグラスファイバー製で、ラークの改造シャシーに載せられている。その後、5人の企業家が交代で2006年まで製造した。

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スチュードベーカーはどうなったのか?

1963年に米サウスベンド工場での生産は終了したが、1966年までカナダの工場で生産が続けられた。現在は、自動車部品会社のフェデラル・モーグルがその名を所有している。

シムカ1000ラリー(1970年)

アバルトはシムカ1000に魔法をかけたが、ルノーやNSUに代わってリアバイアスのスリルを求めるエンスージアストの心を捉えたのは、3つの「ラリー」モデルである。空力的に難があったとはいえ、1000は予算内で購入できる高性能セダンのベースとして理想的なモデルであった。

ラリーモデルの最初の2台は市販用のホットロッドモデルだったが、「ラリー3」はホモロゲーション用の本格的な公道レースカーとして発売された。3モデルともに、現在でもヒルクライムイベントで広く使用されている。

シムカはどうなったのか?

1970年にクライスラーに、1979年にはPSAプジョー・シトロエンに買収され、以後シムカの名はタルボに取って代わられた。

サンビーム・タイガー(1964年)

1901年に設立されたサンビームは、1935年以降姿を消していた。しかし、1950年代の米国のオープンスポーツカーの波に乗り、1953年にキュートなアルパインとともに復活を遂げた。

より大きなパワーを求めていたサンビームは、キャロル・シェルビーの協力を得て、最高出力166psのフォード4.3L V8を搭載する。アルパインの2倍のパワーを持ちながら、車重はわずかに軽いというこのタイガーは、わずか3年で7000台以上を売るヒットとなった。

サンビームはどうなったのか?

ルーツ・グループの一員であったが、クライスラーに吸収され、さらにプジョーに吸収された。1981年、サンビームの名は消滅した。

タトラ613(1974年)

ポルシェ911と同じように、リアエンジンというレイアウトが流行しなくなってからも、タトラ613はその姿を保ち続けていた。先代の603と共通だが、そのスタイリングは白紙に戻された。チェコスロバキアのタトラは、イタリアのヴィニャーレ社との異色の提携により、時代にマッチした新しいデザイン・アイデンティティを打ち出したのである。

今やソビエト連邦時代の東欧を代表する名車として記憶されている。KGBやワルシャワ条約機構に所属する組織のお気に入りだったため、夜中の2時に家の前に停まっているのを見るのは嫌なものだ。

タトラはどうなったのか?

1999年に自動車製造を中止したが、小規模なトラックメーカーとして存続しており、プジョーに次いで欧州で2番目に古い自動車メーカーとなっている。タトラの創業は1850年で、馬車を製造していた。

タルボ・サンバ・カブリオレ(1982年)

フォルクスワーゲンのゴルフ・カブリオレをロールス・ロイスに見立てたのが、タルボ・サンバ・カブリオレ。欧州で最も安価なクルマをベースにしたこのオープンカーは、資金繰りに苦しむ若いドライバーにとって、お金をかけずにヒーローになれる方法だった。

また、サンバをプジョー104やシトロエンLNAと遺伝子を共有するモデルから切り離し、タルボブランドに独自のイメージを持たせることも試みられた。タルボが地中深くに沈んだ後、サンバ・カブリオレから聖火を受け継いだのはプジョー205CJである。

タルボはどうなったのか?

1979年にPSAプジョー・シトロエンがクライスラー・ヨーロッパを買収すると、タルボのバッジを旧クライスラーやシムカのモデルに使用するようになった。乗用車への使用は1987年まで、商用車への使用は1994年まで続けられた。

トライアンフ・スタッグ(1970年)

50年代から60年代のトライアンフにおいて、成功したTRの可愛らしさに目を奪われる人もいるだろうが、AUTOCARはメルセデスSLに対する英国流V8エンジンの回答として、スタッグがもっと評価されるべきだと考えている。

信頼性の問題には悩まされたものの、ハンサムな雰囲気を持つスタッグは、調子の良いときには気持ちのいいドライブができたものだ。

トライアンフはどうなったのか?

トライアンフは所有者のブリティッシュ・レイランドの下で経営が悪化し、奇抜なTR7が最後の自社開発車となった。その後、1981年にホンダをベースにした茶番劇「トライアンフ・アクレイム」が登場し、1984年にその名が途絶えた。

しかし、ミュンヘンの誰かが長い間記憶していたのだろう、トライアンフ・カーズの名前は現在BMWに属している。これはローバーの所有だった頃の名残だが、BMWがローバーを手放した際にも残った。トライアンフとBMWは、1970年代の欧州の小型スポーツセダン市場で真っ向からぶつかり合った間柄だ。

ベスパ400(1957年)

自動車メーカーとしては、ベスパはもう死んでいる。スクーターで世界的に知られるこのイタリアンブランドは、モナコで開催されたイベントで、欧州市場で最小クラスの400を発表し、四輪車という沼に足を踏み入れたのである。

排気量393ccのエンジンを積んだベスパ400は、ゴッゴモビルやフィアット500と同じハンカチサイズの小型車クラスに参入。生産はフランスで行われた。その後、ベスパは二度と四輪車を製造することはなかった。

ベスパはどうなったのか?

一言で言えば、何も起こっていない。親会社のピアッジオは、ベスパを含めアプリリアやモトグッツィなどさまざまなブランドを展開し、2019年には40万台の二輪車を販売した。

デソト・モデルK(1928年)

1928年にクライスラーによって創設されたデソトは、最初の市販車として「モデルK」を発売し、ライバルの注目を集めた。発売から1年間で8万1065台を販売し、この記録は数十年間破られることがなかった。

デソト・モデルKは、同クラスのクライスラーより安く、6気筒エンジンを搭載し、ロードスターをはじめとする多くのボディスタイルが用意されていた。クライスラーの主力ブランドとして、その未来は明るいように見えた。

デソトはどうなったのか?

初期の成功は、すぐに色あせてしまった。クライスラーは1928年にダッジを買収し、どちらも大衆向けブランドとしてクライスラーの下に位置づけられたため、ブランド間でしばしば重複が見られるようになった。

デソトは1952年に半球型燃焼室を持つファイアードームV8を、1955年には「フォワードルック」というデザイン理念を採用するなど、クライスラーの他ブランドと同じように進化していった。1958年には、エドセルを終わらせた不況の影響もあって販売が落ち込み、クライスラーは1960年にデソトの閉鎖を発表した。

デューセンバーグ・モデルJ(1928年)

デューセンバーグ(Duesenberg)は、世界で最もラグジュアリーなクルマとしてモデルJを開発した。クーペ、コンバーチブル、サルーンなど、購入者の財布の中身次第で、世界各国のコーチビルダーが手がけたさまざまなボディを装着できる真っ白なキャンバスのようなものだった。

当初は自然吸気の直列8気筒エンジンを搭載していたが、1932年には最高時速160km/h以上を出せるスーパーチャージャー付きモデルも登場。モデルJは1937年までに約481台が製造された。

デューセンバーグはどうなったのか?

1937年、エレット・ロバン・コード(Errett Lobban Cord)の自動車製造業が破綻し、デューセンバーグは突如閉鎖された。オーバーンもコードも閉鎖。その後、何人もの企業家がデューセンバーグの復活を試みたが、失敗に終わっている。

俳優のゲイリー・クーパーが所有していた1935年製のデューセンバーグSSJロードスターは、2018年にオークションで2200万ドルで落札され、オークション史上最も価値のある米国車となった。

ナッシュ・メトロポリタン(1953年)

ナッシュはメトロポリタンを、欧州のセンスを取り入れた小型の「アメ車」として構想していた。ピニンファリーナにデザインを、オースチンにA40のエンジンと予備生産能力を依頼した。

こうして、米国で最も小さく、最もスタイリッシュ(?)なクルマが誕生した。1954年のモデルイヤーから販売が開始されている。セカンドカーとして購入されることも多かったメトロポリタンは、1961年に生産が終了するまでさまざまな進化を遂げ(ハドソンやランブラーなど、いくつかの名前で販売された)、現在に至っている。

ナッシュはどうなったのか?

1954年、ナッシュとハドソンは、当時米国史上最大の企業合併であるアメリカン・モーターズ・コーポレーション(AMC)となった。米国第4位の自動車メーカーである。ナッシュの名前は1957年に使われなくなり、AMCは1987年にクライスラーに買収された。

アウトウニオン1000SP(1957年)

アウトウニオン1000SPの外観は、標準の1000との関連性を示すものが少なく、むしろ洗濯で縮んだ初代フォード・サンダーバードのような印象であった。2ストローク3気筒というベーシックなエンジンは、ファミリー層向けの1000と共通だったが、モデル固有の違いもある。

シュトゥットガルトのコーチビルダー、バウアは1958年から1965年にかけて、1000SPを約5000台生産した。また、1961年からは1000 SPをベースにしたコンバーチブルを約1640台生産している。

アウトウニオンはどうなったのか?

1969年にNSUと合併し、その直後に両社ともフォルクスワーゲンに吸収された。アウディはこの合併によって誕生したのである。現在、両ブランドは休眠状態にあるが、アウディはNSUの拠点であったネッカーズルムで、フォルクスワーゲンはアウトウニオンのルーツがあるツヴィッカウでクルマを製造している。

チェッカーモーターズ・タクシー(1960年)

1961年に発売されたチェッカー・タクシー(A9/A11)は、今もなお米国を代表するタクシーである。何十年もの間、外観を大きく変えることなく生産され続けたことで、スーパースターのような地位を確立した。チェッカーは長年にわたりタクシー市場をほぼ独占していたため、流行を追った新鮮なデザインや新機能で顧客を呼び込む必要がなかったのだ。

1970年代、ニューヨークをはじめとする主要都市でタクシー規制が緩和され、同社のビジネスが脅かされるようになった。チェッカーは個人やホテルチェーンにも少数を販売していたが、顧客の大半はタクシー運転手であり、より新しく、より速く、より効率的な新型車が流入してくることで、市場シェアが低下してしまった。

チェッカーモーターズはどうなったのか?

GMの元社長エド・コールは、引退後チェッカーに投資したが、1977年に彼の死後、会社の若返り計画は頓挫した。モデルの老朽化と財政難に直面したチェッカーは、1982年に閉鎖。同年の生産台数は2000台であった。

アンフィカー・モデル770(1961年)

1961年に発表されたアンフィカー770は、ボートとクルマのハイブリッドで、直接的なライバルは存在しなかった。リアに搭載されたトライアンフ製の4気筒エンジンは、後輪またはリアバンパー下の樹脂製プロペラを回転させる。操舵は陸上、水上を問わず前輪で行う。驚くほど多用途で、ありがたいことに完全防水だ。

しかし、アンフィカーが経済的に生き残るには、あまりにも小さいニッチな市場であった。西ドイツで約4000台が生産された後、1967年に生産が終了。そのうちの1台は、リンドン・ジョンソン大統領に献上された。ジョンソン大統領は、ブレーキが故障したふりをして湖に突っ込み、何も知らない訪問者をからかうのが趣味だったそうだ。

アンフィカーはどうなったのか?

アンフィカーはモデル770の生産を中止した後、自動車産業から身を引いた。現在では、水陸両用乗用車を量産している会社はない。

NSU Ro80(1967年)

1967年のフランクフルト・モーターショーで発表されたNSU Ro80は、当時の市販車の中で最も革新的な1台を自負していた。異様なプロポーション、空力特性に優れたデザイン、ツインローターのワンケルエンジンを搭載した、大型の高級車である。多くの人が、未来のファミリーカーとしてRo80を賞賛した。

しかし、ロータリーエンジンの不具合により評判は芳しくなく、さらに第一次石油輸出禁止令により、その運命は決定的なものとなってしまった。NSUはロータリーエンジンの信頼性を高めるための対策を講じたが、燃費を抑えることはできなかった。Ro80は1977年、直接の後継車種がないまま引退した。

NSUはどうなったのか?

フォルクスワーゲンはNSUを買収したが、その関心はラインナップよりも工場にあった。1969年にNSUとアウトウニオンを合併させ、フォルクスワーゲン初の水冷式となったK70をしぶしぶ吸収した。NSUは1977年にRo80の最後の個体を製造したが、同社の遺産は不滅である。プリンツに代わってNSUが開発したアウディ50(1974年)は、ポロの原型となった。

イノチェンティ・ミニ(1974年)

英国のオースチンと提携し、自動車製造部門を設立したイノチェンティは、スクーター市場から足を洗った。1960年代からライセンス生産を開始したミニは、1974年にベルトーネのマルチェロ・ガンディーニがスタイリングを手がけた改良型を発表する。ベルトーネは、イタリアの新星であるアウトビアンキA112に対抗するため、モダンなデザインを採用し、実用的なハッチバックとした。

イノチェンティ・ミニは、デ・トマソブランドのスポーツモデルなど、いくつかの進化を遂げた。1982年にはダイハツ製の3気筒エンジン、1983年にはデ・トマソのターボチャージャー搭載モデル、1985年にはエントリーレベルの2気筒エンジンがラインナップに加わった。

何度か内外装のアップデートが行われたものの、イノチェンティ・ミニは1993年に引退。これはベースとなったミニが生産終了する7年前、そしてアウトビアンキが最後のA112を製造してから7年後のことだった。

イノチェンティはどうなったのか?

1990年代に入ると、フィアットはデ・トマソからイノチェンティとマセラティを徐々に引き取っていった。イノチェンティの工場を閉鎖し、2代目ウーノをイタリア製より安い価格で販売したブラジル製のミッレなど、リバッジモデルを次々と投入したのだ。フィアットは1997年にイノチェンティを屋根裏部屋にしまい込み、2021年からはステランティスがその名前を所有している。

デロリアンDMC-12(1981年)

GMの元幹部ジョン・Z・デロリアンは、ロータスの創業者コリン・チャップマンとデザイナーのジョルジェット・ジウジアーロの協力を得て、倫理的なスポーツカーというビジョンを現実のものにした。紛争の最中に北アイルランドで製造されたDMC-12は、未来的なシルエット、ステンレススチール製のボディ、ガルウィングドアなど、人々の度肝を抜く要素を満載していた。

しかし、品質上の問題がその評判に大きな打撃を与えた。デロリアンは、1982年モデルで問題のほとんどを修正したが、この対応はあまりにも遅すぎた。1981年の米国の不況で販売が落ち込み、経営陣はさらなる資金投入を拒否。DMC-12は、わずか8975台が製造されただけで1982年に生産を終了した。

デロリアンはどうなったのか?

デロリアンは、自動車業界で最も有名な一発屋になるつもりはなかったし、ハリウッド映画の時間旅行用小道具を作ろうとも考えていなかった。デロリアンは、DMC-12をツインターボ化したモデルをテストし、DMC-24という4ドアモデルの開発に着手していたが、これは後にランボルギーニ・マルコポーロのコンセプトとして再利用されることになる。

しかし、経営難が深刻化し、創業者が逮捕されたこともあって、デロリアンは経営破綻に追い込まれた。

1995年、スティーブ・ウィンという人物が同社のスペアパーツの在庫を買い取り、テキサス州ハンブルにデロリアン・モーター・カンパニーを設立した。当初は部品を販売していたが、今ではDMC-12の後継としてEVスポーツカーを作ろうとしているようだ(詳細はいまのところ不明)。

イーグル・タロン(1989年)

クライスラーは1988年にイーグルを設立し、同年撤退したAMCからバトンタッチした。イーグルのラインナップは、平均的で刺激のないモデルが多く、イメージの低さに悩まされていた。しかし、三菱エクリプスと密接な関係にあるタロンだけは例外だった。

1989年に発売されたタロンは、四輪駆動と最高出力195psのターボチャージャー付き4気筒エンジンを積んでいるのだ。

イーグルはどうなったのか?

今にして思えば、クライスラーのポートフォリオにはイーグルのような無名ブランドを置くスペースはなく、戦うチャンスを与えるだけの興味も資金もなかったのだろう。1990年代には次々とモデルが撤退し、1998年にはイーグルの名前も消滅した。

2021年からはステランティスがその名を所有する。復活の確率は低いが、(プリムスや三菱のバッジを付けた兄弟車とともに)タロンを製造していた米イリノイ州ノーマルの工場は、現在、EV新興企業のリビアンのものとなっている。

ユーノス・ロードスター(1989年)

マツダMX-5ミアータとして世界中に知られるこのクルマは、本国日本ではユーノス・ロードスターという名前で販売されていた。ユーノスブランド最初のモデルで、内外装のエンブレム以外はマツダブランドとほぼ同じである。ユーノスに軽快な後輪駆動のオープンカーを設定することで、そのブランドを知ってもらおうという狙いがあった。

ユーノスブランドは1990年代に姿を消し、ロードスターの後継(NB)はマツダとして販売されるようになった。意外なところでは、ユーノスがシトロエンの国内販売権を獲得していたこともあり、ロードスターはBXやザンティアなどとともにショールームに並んでいた。

ユーノスはどうなったのか?

マツダがユーノスを設立したのは1989年のこと。5チャネル戦略の一環で、ライバルのトヨタや日産と同じようなことをやっていたのだ。ユーノスは、サブブランド・ヒエラルキーの最上位に位置づけられた。オートザム同様、1990年代にマツダがチャネルを整理したため、消滅した。

興味深いことに、マツダの経営陣はレクサスや他の高級車メーカーに対抗し、ユーノスのさらに上位に位置するアマティというブランドの立ち上げも計画していたようだ。V12エンジンを搭載したフラッグシップモデル「1000」(仮称)も発売予定だった。しかし、1992年、日本経済が大きな打撃を受けたため、このプロジェクトは中止となった。

サターンSL(1990年)

サターンは、1990年にSLを発売し、これまでとは違うタイプの自動車会社として活動する計画を明らかにした。SLは、グリルのないフロントエンド、ブランド固有のプラットフォーム、米テネシー州スプリングヒルの新組立工場で生産されたことなどから、GMの他ブランドとは全く異なる外観を持つモデルである。

さらに奇妙なことに、SLには樹脂製のボディパネルが採用されていた。鉄製部品よりも軽く、耐久性があり、安価であるという理由で選ばれたのだ。このように、日本の自動車メーカーを相手にしたサターンのユニークな戦略はまずまずの成果を上げ、1993年9月に50万台を達成した。

サターンはどうなったのか?

サターンは、2000年代のGMの泥沼の中でアイデンティティを失い、横行するリバッジ戦略の犠牲となった。ルノーの支援を得てサターンを救おうとしたペンスキーの試みは失敗に終わり、2010年初めに閉鎖された。

オートザムAZ-1(1992年)

軽自動車規格に基づいて、初代マツダ・ロードスターと同じメンバーが作り上げたオートザムAZ-1。ガルウィングドアやミドマウントエンジンなど、90年代最速のスーパーカーを意識しつつ、日本の都会的なサイズ感が特徴だ。

スズキが開発した64psの3気筒ターボエンジンは、この小さなクルマを動かすのに十分なパワーを持っていた。軽自動車の中で最もワイルドなスポーツカーの1つとして記憶されているAZ-1は、1995年に引退した。

オートザムはどうなったのか?

1989年、5チャンネル販売戦略の一環としてマツダが立ち上げたオートザムブランドは、独自のモデルと店舗網を有していた。オートザムブランドを販売しつつ、ちょっと不思議なことに、ランチアのモデルも国内で販売していた。マツダは1990年代、シンプルさを求めてサブブランドを徐々に廃止し、オートザムも販売店網の名前となり、姿を消した。

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日刊自動車新聞

みんなのコメント

6件
  • ベスパはもう死んでいる
    ってケンシロウかよっ!
  • 時代に埋もれてしまった自動車も、こうして見るとデザインに見とれてしまいます。
※コメントは個人の見解であり、記事提供社と関係はありません。

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