ヤマハのレース部門の技術開発部のトップとしてMotoGPの最前線で指揮を執った“キタさん”こと北川成人さんに、かつてサーキットで共に戦ったライダーやスタッフの中から、「印象に残った人とのエピソード」を語ってもらう本コラム。
今回はレジェンド中のレジェンド、ケニー・ロバーツを支えたヤマハ・ファクトリー・チームの侍たちが繰り広げた、1982シーズン序盤の奮闘ぶりがテーマ。1982年の開幕戦アルゼンチンGPでキングが優勝を飾ったのは、日本人スタッフのマッサージのおかげ!? そんな裏話の数々とともに、キングとの思い出を振り返ります。
語られることのなかったケニー・ロバーツの苦闘:後編【ヤマハOBキタさんの黄金名士録】
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1981年の振り返りでは、シーズン中に0W54(YZR500)の改良は積極的でなかったと書いたが、ハンドリングの改善については試行錯誤を重ねていた。
特に注力したのは、フロントフォークとステアリング軸に角度がついた特殊なフォークブラケット。当時のトライアルマシンTY250にも用いられていたので、社内での俗称は『TYブラケット』と呼んでいた。
さらに当時、出回り始めたフロント16インチタイヤもハンドリングの改善が見込めるので、それらに合わせてフレームのジオメトリーの見直しをしていた。
ただし「大きくて重い」エンジンについては、抜本的な施策は見送られたので、それらの効果が限定的であったことはシーズン後半のレース結果が物語っている。
そもそも『TYブラケット』がどのような効果をもたらすのか。理論的な裏付けが不確かなまま、結果オーライで採用されてしまったので、皮肉なことに後継機の0W60の開発で少なからず混乱を招く要因となった。
0W60の初号機は、0W54の流れから『TYブラケット』ありきで設計されていた。だが実際のところ、6kgも軽量化されて運動性が劇的に改善された0W60には、そのようなギミックはもはや不要だった。
逆にライダーの感覚に合わないトリッキーな前輪の動きが問題になったのである。
さて、普通のフォークブラケットに戻すのは雑作もないが、フレームの方は実際のキャスターに対して数度立っているので新しく作るしかない。
どんなに急がせても出来上がるのは数週間先の話で、そんな悠長なことは言っていられない。そのため、担当メカニックのトラさん【平野博康】と筆者でテストコースからマシンを持ち帰り、その夜のうちにキャスターを寝かせるという荒療治を施した。
方法は至ってシンプルで、予め手計算で出した寸法(確か20mm程)だけフレームのメインパイプをカットし、ダウンチューブをバーナーで炙ってヘッドパイプを後方に倒し、メインパイプのカット部分を突き合せてグルっと溶接して、一丁上がりである。
この改造は的を射ていたようで、結果的にまともなジオメトリ(幾何学的関係)を得たマシンは、大幅な軽量化の恩恵を発揮する。
1982年開幕戦のアルゼンチンGPではケニーさんがポール・トゥ・ウイン、2番手にバリー・シーンが入り幸先の良いスタートが切れた。
■1982年を振り返る
少し時計を巻き戻して、1982年の開幕戦アルゼンチンGPの快挙に至るまでの出来事を振り返ってみよう。
前年(1981年)は初めての海外出張と慣れないレーシングエンジニアの業務に翻弄された筆者だったが、2年目(1982年)は少し余裕を持って臨むことができた。
というのも1982年のアルゼンチン出張は単身ではなく、実験担当のタカアキ君【鈴木孝明/エンジニア】と一緒だったからだ。
タカアキ君は早生まれで筆者と同学年、童顔で明るい性格の好青年だったので話も弾み、24時間以上の長旅もさして退屈しないですんだ。
フライトは成田からロサンゼルス、そこから国内線に乗り換えてダラスなど南部の大都市で何度か離発着を繰り返してマイアミに到着。
ここで荷物を引き取って次のブエノスアイレス行きに乗り継ぐのだが、もう出発時間が間近に迫っていたので待ち構えていた航空会社の職員に急かされて空港内をひた走り、やっとのことで搭乗ゲートに着いた時には、息も絶え絶えという有り様だった。
ブエノスアイレスでは、デイトナ200マイルレースを終えて先に入っていた前川さん【前川和範/主任】とオサちゃん【鈴木修文さん/メカニック】と合流した。
実はグランプリの始まる前にケニーさんが0W60の乗り込みをする絶好の機会と捉えて、YMUSカラーでデイトナにエントリーしていたのだった。
レースではホンダの1000cc V4マシンと途中まで互角に渡り合うも、残念ながら燃料系のトラブルでリタイアとなったが、0W60の仕上がりに手応えを感じていたのか、前川さんとオサちゃんの表情は意外に明るかった。
ちなみに、この年のウィナーはヤマハが準備したYZR750を駆ったグレーム・クロスビーで、デイトナでのヤマハの連勝記録をまたひとつ伸ばしていた。
このYZR750はすでに開発が止まっていたので、デイトナ200参戦に際しては、フロントフォークをYZR500の物に交換。その作業と袋井テストコースでのクロスビー自身による確認走行には筆者も立ち会っていたので、この優勝は筆者にとって幸先の良い知らせとなった。
そしてプライベートテストの当日、現地のディストリビューターのZanella社の手配でマシンをサーキットに運んで来たトラックの姿を見て一同びっくり。
なんと、普段は羊や豚、牧草とか運んでいそうな木製の荷台に幌すら付いていない古色蒼然とした代物だったのだ。
ライバルのホンダチームは、ちゃんとしたパネルバンを持ち込んでいたので彼我の差を痛切に感じたものだが、よく考えたら筆者が入社した当時のヤマハファクトリーも幌なしの平ボティだったから、そうそう悪くも言えないのだった(笑)
Zanella社はヤマハのディストリビューターである一方、古くからモーターサイクル製造業を営むアルゼンチン唯一のマニファクチャラーだった。
いわばライバルであったにも関わらず、快く工場見学もさせてくれたて、「下にも置かぬもてなし」もして頂いた。
工場の規模は、さして大きなものではなかったが、フロントフォークを内製する加工機も稼働していて、短いながら流れ作業の組み立てラインもあり、自社ブランドの125ccクラスのモーターサイクルを製造していた。
工場から少し離れたところには倉庫があり、そこを仮のワークショップとして使わせてもらった。ランチタイムには倉庫番の親父さんがバーベキューグリルでスペアリブやチョリソを焼いてくれた。
実は滞在中には、オーナーのプ―ル付きの豪邸に招かれたり、ラプラタ川のランチクルーズに招かれたりしたが、シンプルな塩と胡椒のみの味付けのこのランチが、市中のレストランでの食事も含めてアルゼンチン滞在中のベストだった。
■ライバル、ホンダチームの偵察へ
さて話を元にもどそう。
プライベートテストにはケニーさんとバリー・シーン、昨年(1981年)までスズキに乗っていたグレーム・クロスビー、クロスビーのチームメイトのグラシアーノ・ロッシ(バレンティーノ・ロッシの実父)、マーク・フォンタンなどが参加していた。
ケニーさんは、ライダースーツやヘルメットの他に小さめのボストンバッグをピットに持ち込んでいた。
これが妙に重たそうなので、中身は何かと尋ねたところ、取り出して見せてくれたのがロープを巻き付けた鉄の塊。
その鉄の塊は、アメリカ国内でダートトラックレースに使用していたXS650のクランクを半分に切ったもので、1mほどのロープで木製のハンドルに結ばれていた。
その場で使用方法を実演してくれたが、両腕を前に出してハンドルを握り、クルクルとロープを巻き取ることでリストを鍛えるという、ケニーさんの姿がいかにも滑稽で一同大笑いだった。
プライベートテストの翌日は基本的にオフで、午前中に整備を済ませたらやることもないので、ホンダのプライベートテストを偵察に行こうという話になった。
実はホンダ初の2ストロークマシンが、その前の週の鈴鹿2&4でデビューしており大変な注目を集めていたが、レース結果はパッとせず恐れるに足らずという情報を得ていた。
ところが、サーキットの外周の生垣の隙間からタイムを計測すると、前日のケニーさんと遜色ないタイムで走行しているではないか。そこでタイムを測っていたケル(キャラザース)さんが出した結論は「このタイムはストレート手前のシケインをショートカットしているな」。
ということで、自説を立証するためにシケインの近くまで移動して、再び生垣の隙間からのぞき見したケルさん曰く「Holy s**t , they use chicane !! (クソっ、やつらシケイン使っているぞ)」
事前に聞かされていた話とずいぶん違ったので、俄かに緊張感が高まったのは言うまでもない。
さて、冒頭に「快挙」と書いたようにレース結果はケニーさんとバリー・シーンのワンツーフィニッシュだったが、ホンダのニューマシン(NS500)を駆るフレディ・スペンサーも含めた3台がめまぐるしくポジションを入れ替える緊迫した接近戦を展開し、レース終盤のバックマーカーの処理で明暗の分かれた際どい勝利だった。
4位には前年にスズキでチャンピオンを獲得したマルコ・ルッキネリのホンダが僅差で続いたので、初の2サイクルマシンでのデビュー戦としては、快挙というしかないだろう。
0W60の戦闘力の高さを確認して安堵したと同時に、新たなゲームチェンジャーの登場に緊張感がいっそう高まったのは言うまでもない。
話は変わるが、この勝利を誰よりも喜んで安堵したのはオサちゃんだったかもしれない。
実は、このアルゼンチンGPはヤマハが冠スポンサーになっていて、それに加えてインポーターの手厚いもてなしを受けていたので、「レースに勝てなかったら生きて日本に帰れるかと本気で心配していた」と、レース後にオサちゃんが漏らした言葉に筆者もハッと我に返ったものだ。
オサちゃんはデイトナからケニーさんに帯同していたので、どういう訳か「ホーちゃん」と愛称で呼ばれていた(どうやらベトナムのホーチミン大統領にどことなく風貌が似ているのが命名の理由らしい)。
ホーちゃんはメカニックとしては特に出番がなかったので、予選からずっとケニーさんのマッサージをするにわかトレーナー役を買って出ていたが、その甲斐あってかレース後のケニーさんからは「ホーちゃんのマッサージのおかげで、気力が漲ってこのレースは勝てる気がした」と有難いお言葉を頂いた。というわけで、開幕戦勝利の一番の功労者は、ホーちゃんということらしい。
さて、なんとか生きて帰れる成果が出たので、無事にアルゼンチンを出国して向かった先はオサちゃんとタカアキ君が日本、筆者と前川さんがオランダと別々になった。
オサちゃんとタカアキ君のエピソードはこの他にも一杯あるのだが、長くなるのでまた次の機会に紹介するとしよう。
アムステルダムに着いて、ひと息と思ったのも束の間、筆者には休む間もなく次のミッションが待っていた。
「キタガワ君、至急イタリアのイモラに行ってくれないかい? アゴちゃんから給油用のタンクを貸して欲しいって電話があったんだよ」と前川さん。
ちなみにアゴちゃんとは、イタリアの英雄ジャコモ・アゴスティーニで、マールボロ・チーム・アゴスチーニのボスだ。
筆者は知らなかったが、その週末はイモラ 200マイルというレースがあり、デイトナ200マイルで優勝した グレーム・クロスビーが今度は0W60でエントリーしていた。
燃料タンクはケニーさんが使用した0W60がクイックチャージ仕様になっていたので、手回しよくそれを譲り受けていたが、肝心の給油タンクについては忘れていたらしい。
ノビー(クラーク)さんに給油タンクを梱包してもらい、自分は最低限の衣類をバッグに詰めて、夕方のフライトでミラノに飛ぶことになったのだが、ここで筆者は痛恨のミスを犯すというか、仕掛けられたトラップに見事にはまって、大ピンチに陥ることになってしまった。
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いよいよ、秘密兵器0W61が登場。ケニーさんもマシンを見て大喜び(笑)シェイクダウンテストは無事に終えたものの、本戦スタート後に数々の難関がチームに襲いかかる。0W61に何が起こっていたのか、後編へと続く。
【Profile】
キタさん:北川成人(きたがわ しげと)さん
1953年生まれ。1976年にヤマハ発動機に入社すると、希望通りレース部門に配属され車体設計のエンジニアとしてYZR500、YZF750、TZ125/250などの開発に携わる。1999年から先進安全自動車開発の部門へ異動するも、2003年にはレース部門に復帰。2005年から2008年まで技術開発部長、2009年からはチームを運営する現地法人代表などを歴任してMotoGPの最前線で指揮を執った。
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