発売を許されなかったクルマ
text:AUTOCAR UK編集部
【画像】未完に終わったクルマたち【すべての写真を見る】 全23枚
translator:Takuya Hayashi(林 汰久也)
何十年もの間、自動車メーカーは莫大な資金を新モデルや派生モデルの開発に投資してきたが、生産開始前に計画が中止されてしまうことがある。
理由はさまざまだ。会社が資金不足に陥ったり、市場が変化したり、モデルが過激すぎると判断されたり。あるいは、単にタイミングが遅すぎたために、ショールームに並べる費用を正当化するだけの販売力がないことに気付いただけかもしれない。
デビュー間近にキャンセルされた例は少なくない。わたし達が購入できるはずだったのに、何らかの理由で購入できなかった有名なクルマをご紹介する。
大豆自動車(1941年)
プラスチックボディのクルマが普及するのは1950年代になってからだが、1941年にはヘンリー・フォードが大豆から抽出したとされる農業用プラスチックを使って新型車を作るプロジェクトを進めていたという。
1941年8月に発表された「ソイビーン・カー(大豆自動車)」は、第2次世界大戦中の鉄鋼の配給不足を見据えて開発された。しかし、戦争の影響で自動車の生産が大幅に制限されたため、大豆プロジェクトは中止となったのである。
ポルシェ・スチュードベーカー・タイプ542(1952年)
スチュードベーカーのルーツは1852年にさかのぼる。その半世紀後には最初のクルマを製造し、1954年にはパッカード社と合併している。ここから業績は悪化の一途をたどることになるが、1952年にポルシェが衰退を止めるべく、V6エンジンを搭載した4ドアセダンを開発した。
しかし、スチュードベーカーの技術責任者であったジョン・Z・デロリアン(1925~2005)は、このクルマが洗練されておらず、運動性能も悪く、デザインも嫌いであったという。このクルマはプロトタイプの段階で終わってしまい、1963年にはスチュードベーカーは自動車産業から撤退してしまったのである。
ボルボ・フィリップ(1952年)
ボルボがPV444の後継車を検討した際、当初はリアホイール・スパッツ、重厚なクロームバンパー、ホワイトウォール・タイヤを装備したかなり過激なものが提案された。
1950年の5月2日(スウェーデンの聖名祝日カレンダーで「フィリップ」の日)に仕様が決定されたことから車名が決まり、22歳のヤン・ヴィルスガールド(1930~2016)がデザインしたフィリップは、ボルボを高級化するための提案であり、全く新しい3559ccのV8エンジンを搭載していた。
このクルマの開発が終盤に差し掛かった頃には、ボルボは高級化しすぎることについて考えを改め、プロジェクトは中止された。現在は、ヨーテボリの博物館で展示されている。
ボルボP179(1952年)
PV444に代わるもう1つの候補がPV179だった。1952年に開発が開始され、再びヤン・ヴィルスガールドがデザインを担当した。
PV444のメカニカルな部分は引き継がれたが、ボディはルーフを除いてほぼ一新された。しかし、このクルマは大きく、重く、不格好なため、生産には至らないと判断されたうえ、唯一のプロトタイプがテスト中の事故で破壊されたことで、寂しいエンディングを迎えた。
1950年代のベビー・ベンツ(1953年)
メルセデス・ベンツは、1982年12月にW201 190を発売するまで、何度かエントリーモデルの発売を試みたが失敗に終わった。1953年の取締役会では、170Vよりも15~20%安価なモデルの開発が承認されたが、1958年にダイムラー社がアウトウニオンを買収したため、このプロジェクトは中止された。
役員たちは、小型のメルセデスが大型のDKWと競合することを指摘し、不要な重複を避けようとしたのだ。
フォルクスワーゲンEA-48(1953年)
1959年に発売されたオースチン・ミニは、現代のコンパクトカーの基礎を築いたという点で、正当な評価を受けている。しかし、フォルクスワーゲンはそんなライバルをほぼ完全に打ち負かしてしまった。
ビートルの販売が伸び悩んでいた1953年、フォルクスワーゲンは「600」と仮称されたコンパクトカーの開発に着手した。1954年には試作車のテストを開始している。
社内ではEA-48のコードネームで呼ばれていた600は、ビートルとの共通部品はほとんどない。ユニボディ構造、フロントマウントのエンジン、前輪駆動、マクファーソン式フロントサスペンションを採用していた。エンジンは、ビートルのフラット4を半分にカットしたような、排気量600ccで18psのフラットツインを搭載していた。
フォルクスワーゲンのボス、ハインツ・ノードホフ(1899~1968)は、1956年にエンジニアにこのプロジェクトの中止を命じた。当時、ビートルの販売はようやく軌道に乗り始めていたが、ノードホフは2番目のモデルが兄弟車の影に隠れてしまうことを恐れていた。
メルセデス・ベンツ600(1960年)
戦後の世界にメルセデスの名をとどろかせたのは、「グローサー」である。1963年の市販開始時には、スタンダードホイールベースとロングホイールベースの2種類が用意されていた。
しかし、何かが間違っていたら、このような形になっていたかもしれない。象徴的な縦型ヘッドライトは、どちらかというと米国チックなデザインになる可能性があったのだ。幸い、メルセデスはこのデザインを採用せず、600の市販モデルではよりドイツ的なスタイリングを採用した。
メルセデス・ベンツ600クーペ(1965年)
メルセデス・ベンツ600は、主に運転手付きの顧客を対象としていた。今度はこれの2ドアバージョンを出すことで、個人向け高級車市場のトップエンドを狙った。600クーペの外観は、ドアを除けば標準モデルとほぼ同じであるが、前輪の後ろに2つのエアベントが追加されていた。
しかし、メルセデスは他のプロジェクトにリソースを割くことを選び、600クーペはプロトタイプにとどまった。唯一、個人のコレクションに保管されている個体が現存し、非常に貴重なものであると思われる。
フォード・マスタング・シューティングブレーク(1965年)
フォードの広告代理店であるJ・ウォルター・トンプソンに勤務していたバーニー・クラークは、デザイナーのロバート・カンバーフォード、自動車愛好家のジム・リカタと協力して、1965年のフォード・マスタングをベースにしたシューティングブレークを製作した。
イタリアのインターメカニカ社に製作を依頼し、ボトムヒンジ式のテールゲート、開閉可能なリアウィンドウ、燃料給油口の移設、折りたたみ式のリアシートなどを備えたクルマが完成した。
彼らはこのクルマをフォードに提案したが、フォードはマスタングの開発時にすでにこのアイデアを検討していたため、答えは「ノー」だった。
フォード・コムタ(1967年)
1967年に発表されたコムタは、都市部での通勤に適した未来のクルマ、つまりEVだった。40km/hの速度で60km以上走行可能で、全長は従来のクルマの約半分、2+2のシティカーとしては見事なまでにコンパクトで、軽快で駐車も簡単だった。
本格的な生産の可能性よりも実験的な意味合いが強く、フォードは2台のコムタを製造し、そのうちの1台は現在、ロンドンの科学博物館に展示されている。
アウディ100カブリオ(1969年)
アウディは1968年にセダンの100を発売し、1970年には2ドアクーペもリリースした。この2台の間に、1969年のフランクフルト・モーターショーで発表されたのは、カルマンが開発した2ドアのコンバーチブルだった。
カルマンはすでにフォルクスワーゲンと提携しており、ビートルをベースにしたカルマン・ギアを製造していたが、残念ながらアウディとの提携はなく、ドロップトップの100は生まれなかった。結局、1992年の80ベースのカブリオレまで、アウディのコンバーチブルは存在しなかったのである。
ローバーP8(1971年)
1963年に発売されたローバーP6は、技術的な成功を収めたものの、最終的には1976年にSD1に置き換えられた。しかし、ローバーは6台のP8プロトタイプを製作しており、本来であればP8がP6のバトンを引き継ぐはずだった(あるいは引き継ぐべきだった)。そうなっていれば、状況は大きく変わっていたかもしれない。
このプロジェクトがなぜ土壇場で中止されたのか、理由は定かではない。一説には、ウィリアム・ライオンズ卿が「ジャガーXJ6のシェアを奪うことになる」と反対したためと言われている。もう1つの理由は、衝突安全テストでの惨憺たる結果である。
シトロエン2CVシュペール(1974年)
1974年、2CVは26歳の誕生日を迎えた。シトロエンは当然のことながら、2CVがあと何回誕生日を祝えるのかを考えた。その流れで、トラクション・アヴァンのスタイリングを参考に、レトロな雰囲気を醸し出すことで2CVの若返りを図るという、いささか不可解な試みに出た。
2CVシュペールと名付けられたこのモデルは、固定式メタルルーフを採用し、GS譲りのフラット4エンジンを搭載するためにフロントエンドを延長した。結果的にプロジェクトは中止されたが、賢明な判断だったかもしれない。
フォルクスワーゲン・パサートGTI(1977年)
1977年、フォルクスワーゲンはパサートのエンジンルームに、アウディ80GTEの11psの1.6L 4気筒エンジンを詰め込んだ。さらに、前後に大型のブレーキを装着し、タイヤを太くして、ゴルフGTIを意識したスポーティなボディキットを装着した。
パサートGTIと名付けられたこの2ドアのプロトタイプは、ドイツのウォルフスブルク周辺の一般道でもテストされ、満足のいく結果を収めた。
しかし、当時のトニー・シュマッカー(1921~1996)CEOは、パサートがパフォーマンスカーに姿を変えるべきではないと考え、このプロジェクトを中止した。
日産ミッド4(1985年)
1985年のフランクフルト・モーターショーで初公開されたミッド4(MID4)は、ポルシェやロータスに対抗する日産の試みだった。
ミドマウントされた3.0L V6、4輪駆動、4輪操舵を備えたミッド4は、250km/hという最高速度を誇る。リアから見るとかなり個性的で好き嫌いの分かれそうなデザインだが、フロントから見ると非常に魅力的なクルマだった。
日産ミッド4 II(1987年)
初代ミッド4の発表から2年後、日産はその続編を公開した。初代ミッド4よりもさらに流麗になった外観(ただし、リアから見るよりもフロントから見るほうがいい)のミッド4 IIは、ミドマウントされた3.0L V6にツインターボを搭載し、330psを発揮した。
日産は多くのテストを行ったが、最終的にミッド4を生産するにはコストがかかりすぎると判断した。
BMW 767iL(1987年)
1980年代後半、7シリーズの上に位置するモデルの導入機会を伺っていたBMWは、数々の豪華なアメニティと強力な16気筒エンジンを搭載した堂々たるフラッグシップを構想していた。そして1987年7月、このクルマの開発が開始された。
エンジニアのアドルフ・フィッシャーの指揮のもと、5.0L V12に4気筒を追加して6.7L V16とし、最もベーシックな仕様でも414psを発揮した。12気筒よりも約30cm長いため、750iLのラジエーターを取り外し、トランクルームに2つの小型ラジエーターを設置する必要があった。
さらに、そこへ外気を導入すべく、ファイバーグラス製のスクープを備えたエア・ダクトをクォーターパネルに追加した。
BMWは767iLの名を冠したこのクルマをテストしたが、取締役会はこのプロジェクトを進めないことを決定した。その理由は、V12を超える必要性がないと判断したからである。
ダイムラーもほぼ同時期に、同じ理由でメルセデス・ベンツのW18エンジンを葬り去っている。
BMW M5 E34 コンバーチブル(1989年)
BMWは歴代のM3にドロップトップモデルを設定してきたが、M5で同様のモデルを生産したことはない。しかし、1989年にはソフトトップのM5が製作され、その年のジュネーブ・モーターショーで公開される予定だった。
ところが、BMWはM3コンバーチブルの売り上げを失うリスクを避けたかったため、直前になって公開予定を撤回したのだ。
ポルシェ989(1989年)
ポルシェは、スポーティで家族向けのセダンを投入することで、1980年代後半の経営のマンネリ化を解消できると考えていた。
989は当初、4ドアの911を想定していたが、空冷フラット6エンジンをやめて、アウディの8気筒に近い4.2L V8エンジンを搭載した。このエンジンは、最もベーシックな仕様で355psを発揮した。
しかし、ポルシェの経営陣は、989の設計と製造には莫大な費用がかかることを認識し、1991年にこのプロジェクトを中止した。996シリーズの911は989からデザイン要素を拝借したが、ポルシェの4人乗りセダンのアイデアはその後、10年以上も途絶えることになる。
ボルボ480コンバーチブル(1990年)
1990年のジュネーブ・モーターショーでボルボが480コンバーチブルを発表したとき、ほぼ市販可能であると言われていた。オランダとベルギーで2台ずつ、計4台のプロトタイプが製作された。
しかし、このドロップトップの480を公開した後、ボルボは生産を行わず、英国のTWRと共同で後のC70コンバーチブルを生産する道を選んだ。
BMW M8(1991年)
E31型8シリーズに558psのV12エンジンを搭載したこのクルマの存在をBMWが認めるのは、ほぼ20年後のことである。このエンジンは、3.0Lの直列6気筒を2つ組み合わせて6.1LのV12とし、6速MTで後輪を駆動するものだった。
2つのバケットシート、レース仕様のブレーキ、威嚇的なボディワークを備えたM8は、BMWにとって魅力的なフラッグシップモデルとなるはずだったが、残念ながら実現しなかった。環境問題や90年代初頭の不況の影響を受けたと考えられている。
メルセデス・ベンツC112(1991年)
1990年にザウバーが製作したグループCレーサー、メルセデスC11の市販モデルとして開発されたC112は、ガルウイングドアとスーパーカー並みの性能を備えた初代300SLの精神的後継車だった。
ミドマウントされた最高出力405psの6.0L V12を搭載し、軽量化とエアロダイナミクスに細心の注意を払うことで、素晴らしい走りを実現していた(はず)。
しかし、発表後に700台以上の受注があったにもかかわらず、メルセデスは何に怖気づいたのか、モータースポーツに専念するために生産を中止した。
オペル・カリブラ・コンバーチブル(1992年)
オープンカーにするとさらに格好良くなるクルマがあるとすれば、それはヴォグゾール/オペルのカリブラである。カリブラの多くはフィンランドのバルメット社の工場で製造されたが、この独立系コーチビルダーが2.0L 8バルブエンジンを搭載したドロップトップのカリブラを2台製作したのである。
1台はテスト中に廃車になったと言われているが、もう1台は生き延びた。しかし、このプロジェクトが中止されて以来、多くのカリブラが様々な企業によってルーフを切り落とされてきた。
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みんなのコメント
リヤ周りと後方からみた感じはS14に採用されてます。
みごと前期はコケましたね。