日本のモータースポーツ界のアイコンが、またひとり第一線から退くことになった。日本における外国人ドライバーの常識を覆すほどの活躍を見せたイタリア生まれのロニー・クインタレッリは、12月に開催されるスーパーGT鈴鹿戦で同カテゴリーでのラストレースを迎える。
クインタレッリは約20年に渡って日本の最高峰カテゴリーで戦ってきたが、特に日産と長く関係を築き、歴代の名ドライバーのひとりに数えられるまでになった。コース上で見せる速さはもちろんのこと、ファンや日産首脳陣からも愛される存在であり、彼自身が自分のことを日本人と勘違いしてもおかしくないほどだ。これはひとりのベテランが単に引退を発表したということにとどまらず、ひとつの時代の終わりを意味する。
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クインタレッリが初めて日本を訪れたのは、鈴鹿でのカートレースにスポット参戦した1996年。この時はまさか日本が将来の住処になるとは思いもしなかっただろうが、同郷のパオロ・モンティンの勧めもあって、2000年代初頭に拠点を日本に移した。
2003年にはINGINGから全日本F3への参戦を開始。クインタレッリはF3の経験が全くないわけではなかったが、マシンに慣れるまでに時間を要した。しかし2年目にはジョアオ・パオロ・デ・オリベイラを抑えてチャンピオンに輝いた。
2005年からはスーパーGTにSARDから、フォーミュラ・ニッポン(現在のスーパーフォーミュラ)にKONDO RACINGから参戦。フォーミュラ・ニッポンでは2006年からINGINGに移籍すると、2007年に岡山で初優勝を記録した。その頃スーパーGTでは、トヨタ系チームから断続的にスポット参戦をしていた。
2007年の暮れ、日産から翌年のGT500フル参戦シートをオファーされた。クインタレッリはほとんど迷うことなくペンを走らせたが、これが彼のキャリアにおける最良の決断となった。
フォーミュラ・ニッポンへの参戦は2008年限りで終了し、2009年からは日産でのスーパーGT活動に専念する形になったクインタレッリ。HASEMI MOTOR SPORT、TEAM IMPULで勝利を挙げるなど、既に好成績を挙げていた。そして2011年、日産がGT-Rの4台体制に戻す上でMOLAがGT500に参戦することになったが、そのドライバーに起用されたのが、MOLAが履くミシュランタイヤの経験があるクインタレッリだった。
クインタレッリと柳田真孝のコンビはMOLAで2年連続のGT500タイトルを獲得。特にスーパーGTではサクセスウエイトの概念があるため、毎戦のように好成績を残し続けるのは難しいが、彼らは2011年、2012年の両シーズンでそれぞれ8戦中5回の表彰台を記録するなど、常識を覆すような活躍を見せた。
この2連覇の実績を引っ提げ、クインタレッリは柳田と共にNISMOに移籍。2014年には松田次生とコンビを組むことになり、このラインアップは長期間不動のものとなる。
この2014年は、GT500でドイツのDTMとの共通規則が導入され、車両パフォーマンスが格段に向上した年。ミシュランタイヤのアドバンテージも加えて、クインタレッリと松田のコンビは2014年、2015年と2年連続でチャンピオンに輝いた。
クインタレッリと松田はその後も何度もタイトル争いに加わったが、いずれもレクサス陣営の壁に阻まれた。2022年には日産陣営の車両がGT-RからZに変更され、戦闘力もアップ。ふたりは既に40歳を超えていたが、それでも衰えを感じさせない戦いぶりで、2023年シーズンには開幕戦を制してランキング3位となった。
2024年は大きな変化の年となった。ミシュランが前年限りでGT500の活動を休止し、松田はNISMOの23号車を離れKONDO RACINGに移籍。クインタレッリのチームメイトには新たに、2年連続でGT500タイトルを争った千代勝正が加入した。今季は2度表彰台を獲得したが、タイトルの権利は失った状態で最終戦を迎えることになる。
通算4度のGT500タイトルは史上最多。優勝18回も歴代3位と、まさに歴史に残る活躍を見せたクインタレッリは、外国人ドライバー史上でも屈指の輝きを見せた。クインタレッリはフォーミュラ・ニッポンで1勝しかしていないため、アンドレ・ロッテラー、ロイック・デュバル、ブノワ・トレルイエ、ニック・キャシディといった日本のGT界、フォーミュラ界を代表するスターたちと直接比較するのは難しいが、45歳のシーズンまで第一線で戦い続けたという点ではクインタレッリに分があるだろう。
クインタレッリが他の外国人ドライバーと一線を画するのは、誰よりも日本に溶け込んだということだ。日本語は堪能であり、日本人の妻を持ち、現在は横浜に住んでいる。
そんなクインタレッリの誠実さも印象的であった。日産からオファーを受けてからは、日産一筋。日産がフォーミュラ・ニッポンに参戦していなかったこともあり、20代後半と肉体のピークにある時期からフォーミュラを降り、スーパーGTに専念してきた。そしてミシュランに対しても、開発ドライバーとして多くのプライベートテストを通して開発に貢献してきた。
そして彼の忠誠を表すエピソードとして最も象徴的なのは、2007年にF1参戦のチャンスを断ったことだ。ミッドランドからF1テストに参加した経験のあるクインタレッリだが、その後継チームであるスパイカーは2007年のハンガリーGP以降の新しいドライバーを探しており、クインタレッリに声がかかったのだった。しかしF1とフォーミュラ・ニッポンにはいくつか日程の重複があり、クインタレッリは所属チームのINGINGのことを考えて日本に残る選択をした。
また、コース外での活躍もレジェンドに相応しいものであった。2011年の東日本大震災を受けての東北地方での社会貢献活動が認められ、2016年には母国イタリアから勲章を授与された。またイタリアが地震に見舞われた際にも、支援のために足を運んでいる。
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