無敵のタルボという称号を得ていた戦前
知る人ぞ知るという存在だが、かつての欧州には、タルボという優れた自動車メーカーがあった。ロンドン・タルボ・カンパニーの創業者は、第20代シュルーズベリー伯爵。特に第二次大戦前は、素晴らしい歴史を残している。
【画像】奇才ロシュによる最後のサルーン タルボ105 エアライン 後年のタルボ 同時期のヴィンテージも 全160枚
当初は、クレマンというフランス車を輸入し、クレマン・タルボとして英国で販売していた。だが1906年に独自モデルの製造を開始。荒野を走るトライアル・レースなどで、他ブランドが羨むような成績を残していった。
1913年のブルックランズ・サーキットでは、レーシングドライバーのパーシー・ランバート氏が、軽くチューニングされたタルボをドライブ。60分で100マイル(約161km)を走りきった、最初の英国人になった。
スイス生まれの奇才、ジョルジュ・ロシュ氏が1914年にモデル開発へ加わる頃には、「無敵のタルボ」という称号を得るまでに至っていた。ところが1919年、タルボはフランスを拠点とする英国資本のブランド、ダラックによって買収される。
そこで、経営のトップはルイ・コアタレン氏へ交代。フランス製のダラックを、タルボ・ダラックとして販売し始めた。その後にサンビームとも合併し、STDグループへ改称されると、ダラック・ブランドはフランス市場から完全に姿を消した。
他方、軽量・高品質な設計を得意とするロシュは、洗練された6気筒エンジン・モデルを生み出し経営を支えた。最初の目標とされたのが、当時のロールス・ロイスに匹敵する、正確な操縦性を叶えることだった。
毎週50台という量産体制が組まれた1927年
かくして、1926年に発売されたのが、タルボ14/45。動力源は直列6気筒の1666ccプッシュロッド・エンジンで、不気味なほど静かに回り、当時としては高回転域の4500rpmまで許容した。クロスブレースが組まれたシャシーは、剛性が高かった。
初めて標準でウインカーを得た量産車でもあり、発電を担うダイナモとスターターモーターを兼ねた「ダイナモーター」は新技術。ロールス・ロイスより大幅に安く、14/45は市場の人気を獲得し、1927年までに毎週50台という量産体制が整えられた。
先見的でもあったロシュは、STDグループの投資が適切に集中できていない状況へ疑問も抱いていた。そこで14/45は、大幅なアップデートの可能性も考慮し設計された。
1931年には、マイナーチェンジ版といえるタルボ105が登場。1935年まで生産されている。これは、戦前のヴィンテージ・モデルでも、特に偉大な1台に数えられるだろう。
結果として、サルーンやクーペ、ツアラー、カブリオレなど多様なボディスタイルへ対応。発売から約10年、基本的なコンセプトが通用したといえる。
2969ccエンジンを搭載した105は当初、ホイールベースが2920mmのシャシーで展開。気流に配慮された吸気マニフォールドと、48mmのゼニス・キャブレターが組まれ、圧縮比は10:1で142psを発揮した。
105のワークスマシンは、1932年の北アイルランド・アルスターTTレースや英国ブルックランズ500レースで優勝。フランスのル・マン24時間レースも3位と4位で完走したほか、1932年と1934年のアルペン・ラリーでも勝利している。
奇才のロシュが手がけた最後のタルボ
コーチビルダーのヴァンデンプラ社製オープンボディを載せた3台のワークスマシンは、圧縮比が向上していたこと以外、量産仕様のままといって良かった。燃料タンクは、大容量のものが標準装備だった。
クルマ好きだった貴族、アール・ハウ氏は、アルファ・ロメオやブガッティと同列に、誇るべき英国車として扱ったほど。105が参戦した25戦中、リタイアは4回だけだった。
ルーツ兄弟が経営を引き継いだ頃、ロシュは独立懸架式サスペンションを備えた、新しいバックボーンシャシーの開発を進めていた。だが、量産には至らなかったようだ。
進化版のタルボ110は、1933年に登場。エンジンは3377ccへ拡大され、1936年から1937年まではタルボ3 1/2リッターの名で販売された。だが、ワイドレンジのトランスミッションや豪華装備で、身軽さが損なわれていた。リムジンも選ぶことができた。
他方、車高を落としパワーアップされた105 B1は、1934年にデビュー。ロシュが手がけた最後のタルボとして、マニアから高く評価されている。
この105 B1では、シャシーのサイドメンバーへ十字状に組んだパイプを追加し補強。半楕円リーフスプリングが前後に組まれ、冷却フィンの付いたアルミ製ドラムブレーキは大径化された。
トランスミッションは、ロシュ自らの設計による遠心クラッチと遊星ギアを備えた、プリセレクター・マニュアル。オートマティックの前進といえ、アイドリング時は自動的にクラッチが切れ、運転の負荷を減らした。
公道を走れない状態へ劣化していた1台
1935年には、サルーンの105 1B エアラインが発売される。荷室内には高品質な工具を搭載し、ジャッキも内蔵され、英国価格は625ポンド。ルーフは金属製のスライディング仕様という、上級モデルだった。
当時は、各部への定期的な注油が不可欠だったが、先進的な集中注油システムを採用。サスペンションやステアリングラックも、常にオイリーな状態が保たれた。
ボディを製造したのは、コーチビルダーのジェームスヤング社とヴァンデンプラ社。だが、1930年代の流線型が強く意識されたスタイリングを描き出したのは、ロシュ本人だった。大陸を縦断し、バカンスを謳歌するためのクルマとして。
105 B1は合計97台が作られているが、DLP 937のナンバーで登録されたシャシー番号4065のエアラインは、1936年12月にラインオフ。牛乳を低温殺菌する機械を開発した発明家、イノック氏へ納車された。
1938年に、経済学者のウィリアム・ジョン・エヴァンス氏が購入。第二次大戦後はイタリア人がオーナーになるが、1957年にグレートブリテン島へ戻ってきている。
1960年代には3名のオーナーを転々とし、どこかの時点で結婚式を祝うウェディングカーとしてホワイトへ塗装。1976年にコーチビルダーのジャック・キャッスル氏が発見した時点では、酷く傷んだ状態にあったようだ。
彼はボディフレームの交換など、ある程度のレストアを施した。それでも売却される34年後には、公道を走れない状態へ劣化していた。そのまま放置され、2017年にオークションへの出品が決まった。
この続きは、タルボ105 エアライン(2)にて。
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