名門ウイリアムズにも不遇な時代があった
ホンダが第2期のF1GP参戦活動においてパートナーに選び、本格的なチャレンジが始まり、やがて常勝時代を築いたことから、80年代には間違いなくトップチームとして名を知られることになるウイリアムズだが、それ以前には不遇の時代もあった。
70年代序盤から中盤にかけてはまさにそれで、スポンサー的にも技術的にも厳しい日々が続いていた。だからといってフランク・ウイリアムズの闘志が萎えることはなかったが……。
1966年に自らのレーシングチームを立ち上げたフランクは、当初F2やF3レースを戦っていたが、69年にブラバムBT26Aを購入してF1デビュー。ピアス・カレッジが2回の2位入賞を果たすなど、ブラバムのコンストラクターズ2位に大きく貢献している。
翌70年は、久々にF1復帰したデ・トマソとジョイントしてチーム運営を手掛けることになるが、オランダGPでカレッジが事故死してしまい、ジョイントは1年限りで終了する。71年はマーチを購入、アンリ・ペスカロロを擁して戦ったがイギリスGPでの4位がベストリザルトだった。
72年には自らF1マシンを製作する。世界的なおもちゃメーカーで、このシーズンのタイトルスポンサーでもあったポリトーイズの名を冠したFX3は、製作が遅れた上にデビュー戦のイギリスGPでペスカロロがレース序盤にクラッシュさせてしまう。
さらに修復なった再デビュー戦のイタリアGPを前に不具合が発見されお蔵入りに。1年限りで撤退したポリトーイズに代わり、イタリアの高級車メーカーだったイゾとマールボロをスポンサーに迎えた翌73年は、FX3の改変版たるFX3Bで序盤を戦いヨーロッパラウンドからはブランニューのIRを投入。2回の6位入賞でポイントゲットを果たしている。
さらに74年にはフランクのイニシャルを関したFW01~03(同型)を投入。アルトゥーロ・メルツァリオが母国GPとなるイタリアで4位入賞を果たすなど地力がついてきた。
コンストラクターとして初めて表彰台を奪った出世作
1975 Williams FW04・Ford-Cosworth DFV
コンストラクターとして地力をつけてきた1975年に、フランク・ウイリアムズ・レーシング・カーズがF1GPに投入したモデルがFW04。前年に使用したFW01~03は同型モデルだったから、FW04はいわばFWの第二世代。
とはいうものの、マクラーレンから移籍してきたレイ・ストコーが手掛けたFW04は、モノコックがよりコンパクトなものに一新されたほかは、FWの技術トレンドを引き継いでいた。スペインGPでデビューしたFW04は、当初は気難しい性格でチームの手を焼かせていたが、次第に熟成が進んでくる。
そしてメルツァリオが去り、エースに昇格したジャック・ラフィーがドイツで2位表彰台を奪うことになる。チームとしてはブラバムを走らせていた69年にピアス・カレッジが2度表彰台を手に入れているが、それ以来。コンストラクターとしては初の栄誉を手に入れることになったのだ。
ピットロードでストップした#21号車は、同年のイギリスGP。ラフィーがギアボックストラブルでリタイヤしたところ。コーナリング中の#20は、同年のイギリスGPには不参加だったから、同年のドイツGP。決勝DNSとなったイアン・アシュレイの予選日の走り、と思われるが正確なところは不明。
ウォルター・ウルフがスポンサードしてヘスケスの308Cを購入
1976 Wolf-Williams FW05・Ford Cosworth DFV FSW76-29
ラフィーの2位入賞で面目を施したウイリアムズだったが、カナダの富豪、ウォルター・ウルフのスポンサードを得た1976年シーズンは、前年に初優勝を飾るとともにジェームス・ハントがシリーズ4位、コンストラクターズカップでも4位につけたヘスケスの308Cを購入、ウイリアムズFW05と命名してシーズンに臨んでいる。
76年のヘスケスは、活動は依然続いていたがヘスケス卿のモチベーションが一気に低下したこともあって、ウルフ・ウイリアムズはマシンの308Cを購入しただけでなくデザイナーのハーベイ・ポスルスウェイトらも迎え入れていた。
そしてスポーツカーノーズの先に1枚ウイングをマウントした特徴的だったフロント部分を手直ししていたが、不振を極めてノーポイントのままシーズンを終えている。#21はナンバー2のハンス・ビンダー。76年に富士スピードウェイで開催されたF1世界選手権inジャパンにて(富士スピードウェイ・広報部提供)。
ウイリアムズと袂を分かったウルフのニューマシンが活躍
1977 Wolf WR1/WR3・Ford-Cosworth DFV
タフなシーズンを終えた76年のシーズンオフに、フランク・ウイリアムズとウォルター・ウルフは袂を分かつことになる。さまざまな事象が要因として挙げられたが、要するに主導権争いの末にウルフが全権を掌握。負けた格好でウイリアムズはチームを去ることになったのだ。
デザイナーのハーベイ・ポスルスウェイトはチームに残り、77年シーズン用マシンの制作に取り掛かった。そして誕生したのがウルフWR1。ウイリアムズのヒストリーとしては直接的な関係がないマシンだが、歴史の枝葉として重要な意味をもつために、ここで紹介しておこう。
チームに残ったハーベイ・ポスルスウェイトが手掛けただけに、彼の出世作となったヘスケス308の技術トレンドを引き継いだマシンだ。発表されたときにはスポーツカーノーズ+1枚ウィングというポスルスウェイトのトレードマークも健在だった。だが実戦デビューを果たしたときにはコンベンショナルなウイングノーズにコンバートされていた。
このコンサバな手法が功を奏したか、新加入のエース、ジョディ・シェクターが3勝を挙げてランキング2位、1カーエントリーだったにもかかわらずコンストラクターズカップでもランキング4位につけることになった。
イギリスはハンプシャーにあるビューリー国立自動車博物館にて撮影したWR1と、76年のF1世界選手権inジャパンで走行中のWR3(富士スピードウェイ・広報部提供)は、スペック的にはまったくの同型車だ。
パトリック・ヘッドとともにのちの有名デザイナーが多数在籍
1983 Williams FW08C・Ford Cosworth DFV
ウルフを去ったフランク・ウイリアムズは、パトリック・ヘッドとともに新チーム、ウイリアムズ・グランプリ・エンジニアリングを設立。初年度となる1977年シーズンはマーチ761を購入して参戦、翌77年シーズンに向けてヘッドがニューマシンを設計することになった。
当時のウイリアムズには、ロス・ブラウンやニール・オートレイ、フランク・ダーニーなど、のちにF1GPで名技術者として名を馳せることになる若き英才たちが多く在籍しており、ヘッドの指揮のもと彼らが腕を振るった最初の“作品”がFW06だった。
さらに78年にはウイングカー理論を盛り込んだFW07を登場させ、引き続き80年にはアップデートしたFW07Bを投入。アラン・ジョーンズがワールドチャンピオンに輝くとともにコンストラクターズカップでも王座に就きダブルタイトルを獲得している。
FW07Cを投入した81年は、ドライバーズタイトルこそ逃したもののコンストラクターズカップを連覇。反対にFW08を投入した82年には、コンストラクターズカップの3連覇こそ逃したものの、ケケ・ロズベルクがワールドチャンピオンを獲得。
3年間にドライバーズタイトルとコンストラクターズカップを2度ずつ獲得し、紛れもないトップチームの仲間入りを果たすとともに、DFVユーザーとしても最後の栄光を記すことになった。
栄光は80年代に入ってからだが、その根源は間違いなく77年。ウイリアムズがヘッドとともに立ち上げたチームの初作、FW06だった。
写真はともに83年式のFW08Cでカウルを被った個体はドニントンのGPコレクションで撮影。一方カウルを取り払ってストリップ状態の個体はフェスティバル・オブ・スピードで撮影。
(文:原田 了)
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