ルノー ラグナ のみんなの質問

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日本人ボクサーが黒人ボクサーと試合したことはありますか?

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たくさんあるでしょう。

昭和5(1930)年に大日拳がフィリピンから招聘した5名の選手の中に、ボビー・ウィルスという黒人選手がおり、橋本淑と小林信夫の帝拳勢、”ゴムマリ戦法”で人気を博した熊谷二郎(日倶)らと連戦しています。

ウェルター級を主戦場にした熊谷はウィルスの好敵手となり、10戦を超える対戦が組まれている。

昭和5年8月29日に甲子園球場でウィルスと対戦した小林信夫は、ウィルスの強打を浴びてダウンを繰り返し、タオル投入による9回TKOに敗れた翌日、神戸市内の病院に搬送され手当てを受けたものの、意識不明のまま9月1日に死去(享年24歳)。日本ボクシング史上、リング禍による最初の犠牲者となりました。

戦後になると、昭和33(1958)年に世界バンタム級4位マヌエル・アルメンテロス(キューバ)が来日。6月2日に稲垣健治(国際)を、初回1分足らずでKO。電光石火の右ダブルフックの切れ味は、後々まで語り草となったそうです。

翌7月11日には、日本王者で世界6位にランクされていた石橋広次(AO)を6回KOに屠る。折しもフィリピン、タイ、日本など、東洋圏のボクシング事情を視察に訪れたNBA(WBAの前身)の渉外担当アンソニー・ペテロネラが、石橋のテクニックを高く評価したと報じられたこともあり、バンタム級の世界王座挑戦の実現にファンの期待は高まったが、アルメンテロスの強打の前になす術なく敗れ、「4位でもこの強さ。チャンピオンになったらどれほどか」と、取材した記者たちも一斉に意気消沈したとか。

アルメンテロスはマネージャーはおろかトレーナーも帯同せず、文字通りの一匹狼だったそうで、当時国内のボクシング界で唯一海外との交渉が可能だった国際興業に、本人が直接電話をかけてきたらしい。

下手にマネージャーを雇えばピンハネされる。トレーナーも要らない。無駄なカネを使うのはまっぴらごめん。セルフマネージメントで世界を渡り歩き、疾風のごとく次の戦地フィリピンへと去ったアルメンテロスは、”黒い恐怖”と呼ばれて長く日本のボクシング史に記憶されることになった。

世界タイトルマッチで初めて黒人選手と拳を交えたのは、帝拳の期待を一身に背負い、日本人初のフェザー級制覇に挑んだ高山一夫。

昭和35(1960)年8月29日、後楽園球場で世界フェザー級王者デビー・ムーアに挑戦し、「ルノーがダンプカーにぶつかるようなもの」と揶揄されながらも、圧倒的不利の予想をものともせず大善戦。採点は大差(74-62、73-66、73-64)がついたものの、15Rを戦い切って拍手を浴びた。

ムーアは試合後「日本の記者にだまされた」とコメントし、高山の実力を認めている。ムーアは、翌昭和36(1961)年に再来日。11月13日に蔵前国技館で高山との再戦に臨み、大差の判定で返り討ち。


エディ・パーキンスが高橋美徳(三迫)を相手にせず、13回KOに退けて中量級の厚い壁を思い知らせたのは、昭和39(1964)年1月4日(蔵前国技館)。日本人初のJ・ウェルター級王座挑戦は、見るも無残な結果となった。

パーキンスの圧勝に続き、2ヶ月後の3月1日にはシュガー・ラモスが来日。高山を連破したムーアから王座を奪ったラモスに挑むのは、フライ級から階級を上げた関光徳(新和拳)。

右回りに徹するサウスポー関に対して、ラモスは左フックを効果的に使い、鋭い右フックとアッパーで序盤から圧倒。第6Rに3度のダウンを奪われ、ストップされた。東洋王者として4度の防衛に成功していた関は、この時世界2位。ファンの期待は高山の時と違って高かったが、王者との力量差をまざまざと見せつけられる。


戦前に長期渡米し、本場のリングで名を上げた玄海男、同じくエバーラストの年鑑でバンタム級6位にランクされ、日本ボクシング界初の世界ランカーとなった徐廷権、MSGで戦ったとされる”ノックアウトQ”こと木村久、昭和4年の暮れから半年に渡って渡米し、カリフォルニアで20戦以上をこなした熊谷二郎(バーニー・ロスと対戦)らも、当然黒人選手とグローブを交えたでしょう。

フレディ・リトル、イスマエル・ラグナ、エステバン・デ・ヘスス、アントニオ・アマヤ、エルネスト・マルセル、アントニオ・セルバンテス、オーランド・アモレス、ナタリオ・ヒメネス、アルフレド・エスカレラ、ルイス・エスタバ、ハイメ・リオス、デビッド・コティ、ホアン・グスマン、リゴベルト・リアスコ、アルフォンソ・ロペス、マット・ドノバン、イラリオ・サパタ・・・・・・・

世界戦だけでも枚挙に暇がない。

60~70年代は西海岸とハワイのみならず、中南米への武者修行も頻繁に行われていました。褐色のヒスパニック系と戦った日本人選手は、少なくなかったと思います。

その他の回答 (3件)

  • 高橋ナオトvsマーク堀越

    串木野じゅんや?
    vs
    マリオなんとか?

    いずれも、日本タイトルですが、近年の世界タイトルより盛り上がったみたいですよ。映像は見ましたが、ヤバかったですなww

  • 日本人ボクサー対黒人ボクサーの初めての世界戦は

    確か、高橋美徳×エディ・パーキンスだったと記憶しています。

  • 飯田選手はやりました!ベネズエラの選手とp(´⌒`q)竹原もジョッピーと

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